行ったことのないスタバ

行ったことのないスタバに行ってみようと思って車に乗った。スタバというのは田舎にあっても自動ドアをくぐったあとはオシャレなものである。塗装の剥げたダイソーブックオフのことを一瞬にして置き去りにするオシャレ速度。あと、店員さんがスタバの店員であることに誇りを持ち、活き活きとしている。と思ったら店員さん同士の仲が悪そうなスタバだった。そういうところもあるんだな。たまたま疲れているだけかもしれないし、私の機嫌が悪いのかもしれない。そう思うことにする。

リュックに入れっぱなしの詩集を開く。チョコの入っているフラペチーノとドーナツを横に置いて、三角みづ紀さんの「どこにでもあるケーキ」を読む。三角さんの詩に流れている血は肌に近い温度だから、家で読んでも良さそうなものだけど、詩はスタバで読むに限ると思う。詩も短歌も、実家で読むようなものじゃない。そう言ったら嗜好品としての詩集を否定することになるだろうか。贅沢品を贅沢なものとして味わうにはシチュエーションも肝心だ、というようなことを言いたいのだけど。そうして私はやっとその本を読み切った。

 

毎日インドカレーを食べていたらインドカレーをつくりたくなった。それと同じで、詩を読んでいると詩が書きたくなる。おいしいカレーをつくったひとのつくるカレーが結局のところいちばんおいしい。おいしいと思わせたいのではなく、またおいしいと思いたい。私はいつも自分の感情の後味を追いかけているだけだ、と思う。

バージョン

機織りの工房に通っていたら冬が終わった。明日からまた冷え込むらしいけど、マフラーを織り終えた日はちょうど春一番が吹いていた。今マフラーは私の部屋でハンガーにかかり、静止している。

一本の糸が、木と針金で押し込まれるだけで布になる様子は、ちょうど鉛筆で引いた線が重なって面になるのを眺めているようで、それだけで劇的だった。グランドピアノを分解して組み立てるのが趣味という芸能人がいたけれど、学ぶことはいつも、そんな感じ。既に形をとっているものをバラバラにして、その通りに作り直す。自分の目や手を通して、筋肉痛になりながら知っていくことはひとつたりとも忘れたくない。それを感動という言葉に置き換えると大げさに聞こえるかもしれない。でも忘れたくないことなんて、生きていてそんなにたくさんはないのだから、覚えていたいと思えるだけで、それは心が動いたということなんじゃないだろうか。私は忘れたくないことが増えるのがすき。

わるだくみ

家でぐったりとしていたら、母がピカピカの黄色い封筒を「届いていたよ」と差し出してきた。開封したら、年上の友人からの年賀状と、インド産の紅茶のティーバッグがひとつ入っていた。この人は、連絡をとるときいつもちょっとした仕掛けを用意するおもしろい人で、過去にiPadにタッチペンで書いた誕生日メッセージをLINEで送ってきてくれたり、ちょっと早いクリスマスプレゼントにお菓子とコーヒーの詰め合わせを贈ってくれたりして、いつも私をびっくりさせてくれるのだ。今日も、封筒の差出人を見たときにクスッと笑ってしまった。これは、私がLINEの返事をクリスマスカードにして、突然送りつけた回への「返事」だろう。笑ってしまうくらいびっくりさせられてしまうことも、驚いてしまうことも、そういう素直さが自分にあるということも、どれも嬉しい。次はどんなサプライズを仕掛けようか。もうしばらく、家族と恋人とカレー屋のSさんにしか会っていない。でも私にはまだ、この町の外に友人がいてくれるのだ。

凍える庭

好きな人の姿をじっと見続けてしまうときの気分は、動物を見ているときよりも、雪の降る庭を眺めているときに似ている。私もそれなりにルッキズムに翻弄されて生きてきたから、もういい加減そういった既存の差別意識に取り込まれたくないという気分があるのだけど、それでもなお人を綺麗だと思うことがある。そういうとき、どんな言葉にしたら相手や自分を傷つけずに済むのか、今もまだ考えあぐねている。人のことを美しいと感じることは、おそらく誰よりも自分への救いになっている。ただ同じ動物だというだけなのに、それが誇らしく、同時に後ろめたい。

連日、こまかい雪が降っている。陽が射せば溶けて消えるくらいの、まだやわらかい雪だ。寒いところに薄着でいれば凍えてしまう。でも大きさの異なる真っ白な塊が延々と降っているのを見ると癒される。自分と関係のないところで、風景が変わっていく不思議。理不尽。目がそういうものを必要としている。

パンを買いに

近所のパン屋さんに行くために早起きをした。毎週月曜日は休日で、よく行っていたパン屋だった。秋になって閉店時間が早まって以来、行けていなかった。早まる前も、行くたびに「もうこれしか残ってないんですけど」と申し訳なさそうにされた。休日は目が覚めるまでに時間がかかるから、今日7時にパッチリと目が覚めたことに逆に動揺した。

いつも丸い、ジャムもあんこも挟まっていない、一番シンプルな小さなパンを好んで買っていた。以前手作りの肉まんをくれた知人が、よく「総菜パンのパンは味がしないパンだから嫌」と言っていたけど、たしかに、自家酵母のパンは「味がする」と思う。だからこれは教えてもらった味覚なのだ。はじめて見る、チョコレートの入ったパンと、いつものパンを買って帰る。チョコもゴロゴロ入っているけど、生地がかためで、もちもちとしていて、とてもおいしかった。

お会計を担当してくれるお姉さんとは、なんとなく気が合うような感じがするので、つい普通よりも話しかけてしまう。そういえばクーポンのくじ引きで大吉を当てたときも、いっしょになってはしゃいでくれた。今度私がお手伝いしているカレー屋に来てくれるという。ふしぎだ。

お店っていいなあ。現実って頼りないけど、がんばったらもっとおもしろいのかもしれない。

喜んだふり、傷ついたふり

この前お店で、
「あんたいくつになったの?」
「40です」
「まだまだガキね」
という会話を聞いた。なんてチャーミングなんだと思った。
こう言えばこう返って来るだろう、という想定を覆される会話ができることなんて、人生で数えられるくらいしかない。でも喫茶店や飲食店で働いていると、お客さん達の好ましい思い出になりそうな一日に、脇役として居合わせることを許してもらえる機会が多くあり、私はそれをとても得がたいことだと思っている。

「20です」と言えば「若いね」と言われ、「30です」と言えば「まだまだこれからね」とか言われ、その都度無理に喜んだふりをしたり、傷ついたふりをしたりしなければいけない。20年生きたから20歳で、30年生きたら30歳になるというのは、誰かが決めた目安であるというだけで、別にその人の成果や失態を表すわけでもないのに、なんでそうしないといけないんだろう。まあ、いけないってこともないのか。そういう口の運動で表情のウォーミングアップをすることもままある。最近の私は天気の話とか、けっこうすきだ。昔は、「なんでみんなテレビみたいなことばかり言うんだろう」と訝しく思っていたけれど、最近では「テレビを見ることで、私でも似たり寄ったりの社会性を獲得できるように、ちゃんとなってたんだな」と納得するようになった。年齢に関する価値観も競争に関する価値観も、テレビを見たら、クラスメイトよりわかりやすく、同じようなことを色んなタレントが、繰り返しおまじないのように語っていた。私はみんなが口裏をあわせてさんま御殿を観てるときに、花とゆめダレン・シャンを読んでいたから知らなかった。

中学生くらいのころに、廊下に並ぶときみんなが「寒い」と言ってくるのにすっかり飽きてしまったことがある。体をだらんと弛緩させて、ぼーっとしていると、薄着でも案外寒くないなと思った。同じように暑いときも、ぼーっとしていたら、クラスメイトに「ねえ、いつも暑くも寒くもなさそうだね」と言われた。べつに暑いし、寒かった。みんなと同じことを言いたくなかっただけで。でも、明らかに「寒い」「暑い」と本人が思っていても、平気そうにしているとき、この人は平気なんだなーと思ってもらえることもあるのかと思った。今は寒いなとか暑いなとかすぐ言うし、がまんもできない。がまんしなくてもいいジャンルのことのような気がするから。(それがいいことなのか悪いことなのかは、よくわかんないけど。)

霧のなか

「このあたりは霧の日の眺めも良さそうですね」なんて話しながらお店の片づけをしていたら、帰る頃には山の稜線をくっきりとした霧が覆っていた。写真が撮りたい、と思う時はいつも車のハンドルを握っている。撮れない。写真を撮るとき、もっとゆっくりとした目を持ちたいと思う。もっと、ズームしたりリサイズしたりしながら、よく眺めないと、自分がいるところが清潔なのか不潔なのかもよくわからない。実際、このところの私は、私のことをあまりわかっていないのだ。霧の夜の運転はひさしぶりだったから、おそるおそる進みながら家に向かった。

 

ここしばらく、何も考えられなかった。とにかく、仕事の知識のインプット、作業の最適化、体力の回復にすべてがもってかれていた。何を書いても時代の言葉にされてしまう昨今だけど、ただただいっぱいいっぱいになっている自分のことを、ちっぽけな自分の、疲労や不満を覚えておいたほうがいいような気がする。なぜなら自分の命というのは、そもそも些細なものだと思うから。