血が足りている・いない

なんとなく血が足りないなと思いながら生活している。物理的にそうというよりは、感覚的に。たとえば自分のSNSを見ていてつまらないなあと思うことが増えた。SNSを見ているのは時間の無駄と言うけれど、SNSを見て時間を無駄にするのが私はわりと好きだし、何かトラブルがあるとしても、何も起きないよりはずっといいと思っている。新しいアカウントをつくってみたほうがいいかもしれない。

昼過ぎ、どこにも行く気がせず草刈り機の稼働する音を聞きながら畳に寝そべって『ことばと』を読んでいた。福田尚代さんという人の巻頭表現がめちゃめちゃいいなーと思っていたら、『ひかり埃のきみ』書いた人だった。鬼気迫るような美しい回文をつくる人。こういう、何か降りてきているとしか思えないような詩が、回文というシステムに基づいて書かれていることはいい意味でホラーだし、神秘的でうさんくさい書き手に対して風刺的だなあと思ったりする。別に珍しいことではないのかもしれないが、これが詩として掲載されているのではなく、巻頭表現という項目に掲載されているのはすごく正しいことだと思う。


以前利用した渋谷の喫茶店が閉まっていたのを知り、ブックマークだけして放置していた上野の喫茶店の通信販売を利用してみた。粉を注文したつもりだったのに豆が届く。珈琲豆。つやつやしてる。まあいいか。次の出勤日にお店のコーヒーミルを使わせてもらえないか聞いてみよう。

東京に出ていちばん感謝したのが、こだわりのあるおもしろいお店に自分の足で行けることだった。そこで飲食することも好きだったけれど、ドアを開けてテレビではかからない曲を聴いて店主こだわりの古めかしい椅子に腰掛けていることが好きだった。おもしろいお店に入って行くと、おもしろい世界に参加できているようで、うれしかった。今お手伝いしているカレー屋も、いろいろと大変な時代だけれど、おもしろい世界になるような予感がしている。漠然とだけど。漠然といい予感がするというのはとても希望のあることだ。

言わされちゃってる

「カレーを知れば健康も手に入る!!」と、取り寄せた本の帯に大きく書かれている。強気でいいなと思う。宣伝文句ってだいたい、「言わされちゃったね」としらけてしまうのだけど、自分の体調のせいか、書いた人のパワーによるものなのか、なんらかの強い思想を感じるのだ。

リチャード・ブローティガンの『西瓜糖の日々』をはじめて読んでいるのだけど、まだ10数ページなのに、もっときれいな装丁で手元にほしいと考え始めている。おもしろいものを読みたいというきもちと同じくらい、見て触って心地いいものしか手元に置いておきたくないというきもちがある。西瓜糖の日々 は、ずっと一方的にフォローしている人がはじめたお店の由来になった小説ということで、気になってはいたけど読もうとまでは思っていなかった。でもカレー屋でお世話になっているSさんが、以前いっしょに古本屋に立ち寄った際に「西瓜糖の日々という話がおもしろい」とリチャード・ブローティガンの本を指して言っていたのをきっかけに、読んでみたいと思うようになった。そういう縁というか、読むことが偶然になるチャンスを待っていたのかもしれない。おもしろいし、今のタイミングで読んでよかったおもしろさだなと思う。

私は田舎に住んでいる元々インドアな人間なのに、いつもよりこまめにニュースを見たり布製のマスクをしたりするだけで、明るくものを考えたり書いたりすることがどんどん難しくなってきていると感じる。かといって、想像のなかの悪人への過激な叱責や嘆き、想像のなかの善人への架空のいたわりのメッセージを書いても「言わされてんな」と思うようなものになるだろう。いずれにせよ、伝えたいことはなるべく会って感情がうまれたときに直接言いたいものだ。このどっちつかずな気分をくっきりと言葉にしたら、めきめきと悪意に育ちそうで怖い。私がいつも通りにネットで取り寄せた本を読んでいる時間、母親はエアロビを休んで、庭に初夏の花を植えている。

逆死神

山奥に住んでいるけれど、最近はもう調味料を吸いこんでむせてるだけで家族から悲鳴があがる。東京の街中は今、どんな感じなんだろうか。東京の街中というのはつまり、渋谷駅前スクランブル交差点のことではなくて、中央線沿いのすきな喫茶店とか、通っていた大学の構内とか、友人達の住んでいる地区のことだ。ぼーっとしている間に県内の感染者も増え、人の心配をする立場ではなくなってしまった。思い返せば、東京には通算で8年ほど住んでいたにも関わらず、こういった有事のときには一切東京にいなかった。なんやかんやで帰省している。2011年の春はまだギリギリ長野にいて、東京が1ヶ月雨降りのときには長野に帰ってきていて、東京が猛暑のときは東京にいたけど失業保険をもらってずっと家にいた。今も長野にいる。そういう力でもあるのかな、違うか、と笑っていたら、やっぱり生命力があるんだよ。いっしょにいたら寿命がのびそうだもんと言われた。逆死神だねと言ったら、そんなの聞いたことないよと返される。今言いました。

自分には大きな鎌も未来を予知する力も、大事な人をウイルスから守る技術もないけれど、軽口くらいは叩けるらしい。タリーズでチャイミルクティー飲めなくなっても、湖の桜並木を見に行けなくても、世間で名の知れたデザイナーがつまんないロゴマーク作らされていても、生活が止まらない。この不格好でさみしい社会に存在してしまうことの、どうしようもない容易さ。

焼きそばとプリン

UFOって食べたことないな と思ってスーパーでかごに入れる。亡くなった祖母の得意料理が焼きそばだったので、焼きそばといえば手作り料理だった。だから「焼きそばの湯切りで失敗する」というカップ焼きそばあるある にいつもついていけなかった。のだけど、昨年はじめてペヤングを買って食べてみた。はじめてのペヤングは、味がすごいスピードで脳に届いてく感じがして衝撃を受けた。なんていうか、お腹いっぱいに食べてもいい駄菓子みたいでおいしい。いろんな粉が入ってる味する! その頃ちょうどすべてに無気力な時期だったから、しばらくペヤングにハマった。当時のことを思い出しながらお昼にUFOを食べてみたけど、ソースがちょっと多かった。なお、湯切りは今のところ全部成功してしまっている。

元々食わず嫌いが多いせいで人と食事することがきらいだった。運が悪いと、嫌いなものを強要されるからだ。だからか、自分でやる料理も好きじゃなかったのだけど、最近になって夜中に突然プリンが食べたくなってつくってみたりしている。ふしぎなことだ。カラメルソースがずっと茶色くならなくて、思ってたのとは違うプリンになった。(透明な甘い汁になった)でも自分のためにつくるお菓子は自分のためにちょっといい洋服を選ぶみたいに、気楽にたのしい。じっくり向き合えば、風のつよい晴れた日、上着選びに成功したような、いい気分になれる。こんな風に嫌だったはずのことがたのしみになっていく自分がいつも信じられないけど、これくらいの裏切りは二十数回目の春にはちょうどいいはずだ。

まぶたのうら

3月9日を聴くと中学校の体育館を思い出す。イントロで醸し出される切なさにすこし疲れるくらいには、【3年生を送る会】で何度も歌わされてきた。でも、ラジオでふいに流れるといい歌詞だなぁと思う。過去だからといってやさしいばかりの記憶じゃない。それでも過去を思い出すときにはこういうやさしい歌が流れていてほしい。中学校の体育館の床は、テープの色がゴチャゴチャしていて嫌いだったけど、緞帳の赤色のくすみ具合は好きだった。大切な思い出 って後から上手に味付けしてできるものだと思う。だから十代は綺麗な思い出がなくてさみしい。

一日中家にいてしまうと落ちつかないので、母と入れ替わりで車に乗って、本が読みたくなるくらい遠くまで出かける。坂道をのぼりながら、なんらかの眩しさに木々の上に光るものを見つける。車のライトかと思ったものを月光という言葉に置き換える、その途中で月の丸さにも気づく。思ったより大きくて気持ち悪い。歌いながら行くには、車という乗り物が私に速すぎる。ずっと親といると気詰まりだけど、私が豆乳を飲みたいと言った日から、冷蔵庫の扉の内側一段目に調製豆乳のパックが何個か入っていることを知っている。

それでも、大切な人と二人で話すときにはやさしい喋り方をするのだし、こういうのって私のたましいのおいしい部分じゃないんだろうなと思う。弟といるときにお互いに汚い喋り方をするのは、たとえば東京にきた人が方言を使わなくなるように、ただ土地にチューニングを合わせているだけのつもりだけど、楽にしてるから、手抜きをしている状態を素と呼ぶのならそうなのかもしれない。都会の電車でその調子で話していると知らないおじさんにぎょっとされる。それはそれでおもしろいなぁと思うけど、人間と交わす言葉の中ではやさしいタメ語がいちばん好きだ。

ひとりで怒ったり焦ったりしていないで、やさしい喋り方でいられる時間のことを恋人のことを日記に書いてみたいなぁと思いながら、言いたいことをすぐにLINEで言ってしまう。宇多田ヒカルを聴いて満足してしまう。

風邪と正しさから隠れて暮らす

コロナウイルスも流行っているし、今いちばんクリーンで信用できるのはひきこもりの人間なんじゃないかって思う。暇な夜。雨が雪になったり雪が雨になったりする、冬と春の境目の、山の奥深くにいる。明日は雪が降るから、車に乗っちゃいけないと言われた。毎日いろんな心配をするし心配をされる。未来について、いま選ぶべきことはもうほとんど選んでしまって、あとは春を待つだけなのに、時間が過ぎていくのが遅くて不安になる。私がいちばん私の選択を信じてやらないといけないのに、ひとりでいるのがつまらなくて本を読むのに集中できない。どこにいても何をしていても苦しむことばかり上手で、私も大概、つまらない人間だと思う。

金はないけど、逆に金以外はあるので、できることはやっておくべきだと思う。でも、できることってなんだ? 金がないのに時間はあるっていうのが人間いちばんダメだって吉田豪も言ってたな。知ってた。べつに時間をかけて叶えたい夢があるから仕事辞めたわけじゃなくて、辞めざるを得ない状況に追いこまれたからこんな山奥まで逃げてきただけなんだけど。定職に就いてる人に定職に就けと言われて、そりゃそうだよねと思う。経験と異なる人生を想像して肯定するのは難しい。自分に似ている人が好きなんだね。人に聞かれて、過去を思い出すとき、あんまり、人に嫌われたくないなあと思う。数少ない、人生のまともさに共感してもらってもなんだか寂しいよ。元々陽気な人間じゃないし、図書館のゆるキャラにケチをつけたり、山道で鹿のカップルを目撃したりして、それなりに楽しくやっているけど。

味がする

スパイスカレーの教室に行った。マスタードシードクローブ、シナモン、フェンネル。いろんなスパイスの入った料理を食べていると、風味の情報が多すぎて頭がぐちゃぐちゃになって口の中も温まって、そのままの勢いで健康的になれそうな気になる。飲食がもたらす効能のほとんどは思いこみの恩恵だろうから、温かいとか辛いとか、手近な刺激を拾いあげて、食べ終わったら体の熱さのことを「おいしい」と言い表したい。

カレー教室、きっと同じ年頃の人はいないだろうし、ほんとうに勉強のために行くぞと気を引き締めて行ったのだけど、なんだか好きな空間だった。今までさまざまな場所で、自己紹介を促す質問に正直に「春からカレー屋さんの手伝いをします」と答えても、だいたい「ハア」みたいな反応だったのが、自己紹介した途端に「行きます」「店名は?」「住所は」ってほんとうに来てくれる人の興味の持ち方をしてくれて、嬉しかった。それが単にカレーというか、おいしいものへの興味であるだろうことが、余計に私を嬉しくさせた。嘘を言う必要のない空気をできるだけつくりたいと思っているけど、これが他者が支配している仕事の場 とかだったりすると、難しい。へらへら笑って、いつの間にか言わせたり言わされたりする。そういうときの言葉は味がしない。投げつけられる言葉がいずれにせよ痛みを伴うものであったとしても、せめて思ってもないことは口にしないでほしい。生活を賭けてやっていることに興味をもたれたい。ささやかで、とても贅沢な望み。