あたたかい暗がり

べつに働くのはぜんぜん好きじゃないけど、ゴミみたいな粉雪と、冬の日のつめたい空気を頬に受けながら猫背で歩く朝のことは悪くないなと思った。予定がないと午前中に起きて外になんか出ないし。朝の山、きれい。仕事に向かう道の落ち着いた、つまらない頭が私の動きを単純に正常にしていく。単純で正常なことをしていると単純で正常な人になれると思ったりする。そういう勘違いの積み重ねを自信と呼んで安心するのもいいかもしれない。そう口にしたら、あるいは幻滅されてしまうだろうか。それって自分のせいだね。

 

自分が書いた短歌が載ってる冊子を昼休みに休憩所で開いて、「がんばりたくないなー」と思いながら閉じた。もしも読書が世間で言われているようにもっと清潔で素敵っぽい趣味であったなら、ここまで執着することもなかった。素敵っぽいだけのことは疑わしくて、だから善光寺のライトアップをわざわざ見に行ってウケてしまったりする。読書の生臭さが好きだから、本をまだ読めている。大きな声で交わされる噂話ばかりの休憩所で、文字という伝達物の弱さを遅さを優しさのように感じてしまう。

感謝なんかしない

家族が帰ってきた声がして、聴いていた音楽を消す。カネコアヤノの『燦々』ってアルバムの曲を流しながら、タマネギを炒めていた。バイトが終わって、(というかフェードアウトして)頭の中を流れていたうるさい言葉が消えた。嫌いな人に会わないと何も考えないんだろうか。怒るために生きているわけじゃないのに、怒っていると生活が輝きがちだ。でも、私は嫌いな人に感謝なんかしない。

カネコアヤノ、言ってることも音もシンプルなとこがいい。あとは、怒鳴ってるみたいな歌い方とか、それがかっこいいこと とか、あんまり顔に色を塗らないところとか、それが綺麗なこと とかに、なんとなく救われるし、そういう新しさ全部含めてポップスターって感じがする。もっと売れないかなあ。でも、紅白出るくらい売れたらそれはそれで困るかも。当たり前なこと言っちゃった。あいみょん、母親も弟も好きで、みんなで車に乗るときはよく流れてる。私も好きな曲あるけど、好きなラブソングを家族で共有できちゃう気持ち悪さってあると思う。しょうがないんだけどね。

春までの過ごし方をあんまり計画できてなくて、不安だ。本をたくさん、がんばって読んだほうがいいと思う。けど、本を読む しか一日に予定がない日は、なんとなく「がんばってる場合じゃないんじゃないか」と思ってしまう。それというのはつまり、自分がやりたいことをするよりも、バイトをして貯金をした方がいいんだろう という漠然とした「ふつう」への憧れである。何を言っちゃってるんだろう。そういうことを思うとき、私は誰を喜ばせたいんだろうか。人を喜ばせられるほどの余裕が、今はどこにも無いことを、不健康だとわかってる。でも、たとえばその選択が異常でも普通でも、私が自分で考えて選んだことは、何一つとして当たり前じゃない。そのことに、図々しく胸を張っていられるように、時間を重ねたい。

バラエティ

昨年の秋頃に大学の先輩からもらった青い刺繍の靴下、うっかりたくさん履いてしまって、すこしくたびれてきた。うっかり と書いたのには訳があって、綺麗な靴下だからすぐ履きつぶさないように大事に履こうと思っていたのだ。でも私は服でもなんでも青色が好きだから、この靴下を春までにダメにしてしまう気がする。

初詣で引いたおみくじは末吉だったけど、パン屋さんで引いたおみくじは大吉だった。すごくうれしくて店員さんと一緒にキャーッて万歳して祝った。なぜか店員さんのほうが喜んでくれていた。1回500円で、大吉はパン屋さんの商品券2000円分。不思議だったけど、おみくじは大吉を引かれるためにつくるものなのかもしれないね。そう思ったら、なんていうか、くじ引きをつくる気分はやさしい気分かもしれないと思えて、あたたかい気持ちになれた。ぜんぶ私の空想だけれど、そういう空想があってもいいと自分に許せる、たまになら。

そういえば昨年のおみくじ、凶だった。まあそういう喜ばせ方もあるか。ロシアンルーレットとか、みんな見てるの好きでしょう?

会っているけど会ってない人

年末年始、お寿司を握ってパックに詰める短期バイトを始めた。お正月がなくなっちゃうのをすこし残念に思ったけど、カラフルなお寿司を大量につくっている時間はずっと祭りをやっているみたいで、これはこれで思い出になりそう。高校生に高校生だと思われて親切にしてもらって、親切にしてくれるのはいいけど、この帽子とマスクを外して年齢を言ってぎょっとされたらそれはそれで傷つくだろうなあとか冷凍のホタテを運びながら考えてる。若く見えますねって言われるたびに「ありがとうございます」と返さないといけないことにもいいかげん飽きた。人間はみんな老いて死ぬのに、どうして世の中にはこんなにもアンチエイジング思考が幅を利かせているのでしょうか。人間と会うときは年齢に会うのではなくて、ただあなたその人に会いたい。

お寿司はすきなんだけど、午前中のパートの人がずっと何かしら怒っていて、それが目や耳に入ってくるのが不愉快。忙しい人の金切り声を許してあげたいけど、やっぱり嫌いな音はちゃんと汚く聞こえるし、感じよくきちんとした仕事ができる人がいることをもう知っているのでどうしても好ましく思えない。BGMだと思って黙って作業していたら、いつも低い優しい声で喋る人がかわりに謝ってくれた。厳しいことと不機嫌なことはまったく別物なのに、両者はいつもごちゃまぜにされている。べつにいいんだけど。ただ毎日会う人に「私はあなたのことをきっと夢のように忘れることができる」と思うとき、いつもどうしてこんなに悲しいんだろう。自分の優しくなさ を思い知らされるからだろうか。そしてそれを【みっともない】と心底きめてしまっているからだろうか。たしかに好きでもない人と会わなきゃいけない期間は、こうやって自分を追いつめているときがいちばん落ちつく。そういう安心の仕方もある。

頭をさわっているときが一日のなかでいちばん頭がやわらかい気がするから、最近はシャンプーを丁寧にやっている。寝起きに眉毛のあたりをゴリゴリマッサージすると目がぱっちりしてすこし顔が軽くなるみたいに、頭をマッサージしたら性格や毎日がぱっちりすればいいのに。そんなにかんたんにはいかない。でも体が温かいうちに考えることはいつもより少しだけマシ。

あたたかい果物

自分が気に入って買ったものがほとんどない部屋で寝たり起きたりしているの、なんだか無防備すぎてメチャクチャになりそう。メチャクチャになりそうなのは決まって気分が落ち込んでいるときで、調子がいいときはそんなこと思わないのだから、調子がよくないのだろう。半年くらい客間で過ごさせてもらっていたのだけど、いいかげん部屋をつくろうという向きになって、亡くなった祖父母の部屋を整理している。そもそも一時的に泊まるだけのようなつもりで実家に引越してきたのだから、誰のせいでもない。

もう祖父も祖母も亡くなって数年以上経つのに、まだ生きているかのように話してしまうことがある。部屋のせいかもしれない。祖父が元気なころ、趣味で桃やプルーンを育てていた。よく晴れた日に、高い所にいる祖父から桃を受けとって、「そっといれろな」と言われ、そっとカゴに投げ入れたことを今でもたまに思い出す。祖母に笑われながら「そういうことじゃない」と言われた。覚えている。

ずっと家にいるとなんだかいろんなことにナイーブになってしまうから、そしてそれが気分のせいなのか部屋のせいなのか人生のせいなのかよくわからなくなるから、思いつきで、林檎のジャムをつくることにした。赤い球体を回転させながら包丁で皮を向いていると、「お見舞いみたいだ」と思う。ベッドの横で誰かのために果物を切る。そんなこと、した覚えがないから、きっとアニメで見た記憶だろう。包丁をつかったり、水気がなくなるまで煮込んだり、時折へらで掻き回したりしていると、頭のなかから言葉がなくなって心地いい。煮込んだばかりのジャムを味見すると、前につくったときよりも甘さが足りない。でも冷えたら近づくかもしれない。わからない。いろんなことはいつも、私が思うより苦かったり甘かったりする。

あなたのつまらなさにいつも傷ついていた

マグカップ、忘れるところだった! と言って、職場に置いてるムーミンのマグカップを見ていた人が、翌日ちゃんとそのマグカップを忘れていった。それを片づけの日に預かって、バイトが終わって、ちょっと日を置いてからその人に連絡して、お茶をしにいった。バイト先の近くにある、鳥の名前のカフェに行ってみたかったからそこを提案したんだけど満席で、だめだったから田んぼの脇にあるカフェに行った。過去につきあっていたDV彼氏の話とかを、ちゃんとオチもつけて惜しみなく話してくれるような人だから、思ってた通り数時間お茶2杯でたのしく過ごせた。かわいいクマのクッキーをくれた。私は、時間や気持ちの使い方がケチじゃない人のことが好き。

話をしていたらその人が以前東京で勤めていたブラック企業の話になって、芋づる式に私が今年のあたまに辞めた会社のことが思い出された。最初は単に、話に同調していることを示すためのお茶請けとしてそのことを話すつもりだったのに、「ほんとうに嫌いだった」という言葉を口にしたとき、やけに高めの熱がこもってしまったから、私の冷静なポーズは一度そこで台無しになった。

前の会社には朝礼で自分のことを「お局様です」と紹介する女性がいた。その人のことが嫌いだったし、その人にされたことのなかでその自己紹介がいちばん嫌だった。自分を茶化すのと馬鹿にするのってぜんぜん違うと思う。もしかしたら、そうやって自分の振る舞いや立ち位置を嘲るように称することで許されたかったのかもしれない。でも笑えないし。誰も笑ってなかったし。どんなに自分のことを嫌いでも、生活を仕事をキャリアを気に入っていなくても、自分で自分のことを馬鹿にしちゃだめだと思った。見ていて傷つく。

もうそういうの忘れるところだったし、忘れたことにして働いていたし、たぶん忘れちゃったほうがいいんだけど、私の2019年というフォルダの中にその人は大きく居座っていて、その人をその人にされたことを記憶を捨ててしまったら、生きのびようとした今年の私のたましいまで欠けていってしまうような気がするから、しばらくはまだ傷ついたままでいい。だって、出会ってしまったのだ。もう元には戻らない。苦しくても惨めでも、それでよかったと思える自分になりたい。なれると思う。今なら。

その日は鳥の名前のカフェのリベンジをしよう、と約束して別れた。すっかりそのカフェのプリンを食べたい口になっていたから、満席だと知ったときはかなしかったのだけど、こうして次の約束の口実になるなら、それでよかったのかもしれない。

自由の適用範囲

右折して、目の前に下がり途中の太陽がやってくる。フロントガラスがすこしのあいだ白んで、また透きとおる。まぶしさのなか、からだのすぐ脇を大きなトラックが通り過ぎて行くから、胸元がスカスカする。肩のあたりで固まっている力を流す。私は息をつくことがすきなんだけど、それっていつも緊張しているってことかもしれない。そういうことに気づく度に、今さら傷ついたりしないけど、なんだ、って思うくらいはする。生活に緊張感がほしくて労働したりものをつくったりしているようなところがある。でも呼吸のスピードで逃がせるような緊張感はさっさと捨ててしまったほうがいい。

東京行きのバスチケットをネットで予約する。新幹線だと片道5000円、バスだと往復5000円。私はスピードにはこだわらないから、お金のことを考えたら絶対にバスの方がいいんだけど、それだと行って帰るだけで一日が終わってしまう。画面をクリックする度にニュースで見た事故や、先日のことを思い出したりする。車が引き起こす事故の可能性が0になることはないらしい。それでも車がある世界を受け入れて生きている、というか、世界について受け入れるとか受け入れないとか、そんな選択肢はなくて、ただ世界を恨むか恨まないかという問いかけがあるだけなのかもしれない。