きみのとうふのたましいを

今日は北区の図書館に行って来た。無職だった秋に都内の図書館を観光していたんだけど、それを久しぶりに再開した形になる。この観光のいいところは、知らない町を歩けるという点だ。図書館というのは基本的に駅からそれなりに離れたところにあるから。私は知らない道をぼんやり歩いてるときが好きだ。自由だなと思う。暮らしていると、いつも見たことのある道ばかりを選んで、行ったことのある道をその通りに歩いてしまうけど、ほんとうはどこにでも行けるし、どこでも生きてはいけるんだ、ということを思い出す。自由という形のないものは、ものごとを定義する脳のやわらかさがないときにしか手の中に見つけられない。しかし、自覚すればすぐにでもこの手につかむことができる嗜好品なのだ。だから私達は、知らない町の知らない景色に、これからも何度でも救われることができるだろう。

駅前に手作り豆腐の専門店があり、何の気なしに立ち寄って、気づいたら絹ごし豆腐を一丁買っていた。手作りだから、とか、専門店だから、といった付加価値にそこまで信用を感じなくなったので、ほんとうになんとなくだった。ただ、家に着いて、味噌汁をつくるときにその豆腐を取り出したら思いがけずどきどきしてしまったので驚いた。そのずっしりとした厚みや、包丁で一筋いれた断面のきめ細やかさに、息をのむような美しさを感じて、キッチンで数秒かたまる。ああ。生活なんかどうでもいい。でもちょうどこんな風な、人のたましいのあっけなくもろいところを、この手で慎重につかみとりたいと思うことがある。この感動をいのちと呼ばずして、どうしようというのだ。