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野蛮

 明日は母の日だから、カーネーションを買おうと思い立ち、駅前に行ったらものすごい行列になっていた。わたしは花が好きなので、たまに花屋に行くことがあるのだけど、並んだことは一度もなかった。なので、それを見てちょっとおかしくてあったかい光景だなと思った。写真を撮ろうとしたけれど、なんとなくやめておいた。この前も、生け垣に片足を乗せて考え込んでいるスーツの人の写真を撮りたかったのに、やめてしまった。写真を撮るということには、ある種野蛮な勇気がいると思う。だからこそわたしはいい写真を撮る人たちのことをかっこいいと思うのだけど、自分の日常に組み込むにはまだまだ抵抗が消えない。

 立ち寄った本屋でなんとなくフランゲールの「夜と霧」を買って読んでいた。しばらくして授業であつかわれていた本だということがわかった。ふしぎだなと思った。そのことには、「もはやなにも残されていなくても」という小節を読んでいるときに気づいた。そこには「誰にも奪うことのできないものがある。それが経験だ」というようなことを書いてある。わたしは気づいたのだけれど、今同時並行で読んでいる、プルーストの「うしなわれた時を求めて」も同じ授業の参考資料だ。大学時代の、学習という目的にすべてが集約されて許される時間はもう過ぎてしまった。それでもわたしを感動させた言葉は、わたしの暮らしから奪われることのないものだった。そのことはわたしを安堵させた。

休み時間

 目の前に運ばれてきたアイスコーヒーを見て思い出した。今日は何曜日だったっけ? 土曜日だ。ということは、今日はバイトがない。せっかく、ここまできたのに。急に思い立って、本のたくさん入った紙袋を持って、古本屋へ立ち寄って、売っぱらって買って、することもないから喫茶店の席について、本を開こうとしたときだった。なんてことだ。目の前には、バイト前のささやかな贅沢。であるはずだったもの。ただの美しい休日になってしまった。コーヒーの混ざった、でっかい氷がきらきらしている。

 なんっていうか、五月の真っ昼間なんかに外に出ると、もう、イエローグリーンの若葉とか、これでもかってくらい咲き乱れてるモッコウバラとか、Tシャツで歩く人々の肩のラインとか、とかから、伝わってくる、初夏の気配にクラクラとする。加えて、買ったばかりの歌集がとてつもなく、よくて。文字のひとつひとつが、わたしの魂についた窓を開けはなってゆくせいで、この体のぜんぶが風の通り道になってしまう。そんな、むずむずとしたキラキラがつまさきから、ぐーっとよじのぼって、頭から飛び立っていくのだ。はあ。なんたる自由。結論。わたしを幸せにするのはわたし。

春とアルコール

前を歩く人が上を向いているから、つられて見上げたら桜が咲いてる。なんてことが春には当たり前のように起きて、ロマンチックだ。そんな風に思うのは今お酒が入ってるせいかもしれないけど。あ〜。お酒っていいもんだな〜。

浅草にお花見に行った。浅草寺の付近をぶらぶらしながら桜の写真を撮る、という行為をお花見と呼んでるだけなんだけど。楽しかったな。無職だから自粛しようと思ってたんだけど、先輩に言われるがまま遊んでしまったなあ。値のはるおいしい天丼を食べ、クリームソーダを飲み、お酒を飲んだ。気をつかってくれているのかたくさんおごってもらってしまった。就職が決まったら何かごちそうしてよと言われた。そのときは「あはは〜」と笑い飛ばしてしまったけれど、たしかに何か返せるなら返したいなあ。なかなか自分から人に声をかけにくい状況なだけに、誘ってくれる人の存在がありがたいのだった。

神谷バーという昔ながらの大衆居酒屋に行ったのだけど、社会人が多いからか、音が元気で渋かった。今までいかにも会社員みたいな人は苦手だったのだけど、仕事帰りにこういうお店で盛り上がる社会人生活って、味があってうらやましいなと思えた。女の人しかいないテーブルで飲んでたら、可愛いおじいちゃんにナンパされた。「素敵な笑顔の人たちだなと思って!」年上の女性が「若いうちはこういうのがたくさん寄ってくるから、気をつけなくちゃだめよ!」と言い放った。みんなで笑った。

前々から、本で読み、気になっていた「電氣ブラン」をはじめて飲んでみた。普段梅酒しか飲まない身からすると、アルコールの味がして、舌がびりっと痺れた。春の味だ。次はなにかのお祝いに、できれば次のすみかが決まったお祝いに、飲みにきたい。

いちばん安全な場所

ひとつ息をつくために何十秒も息をとめないといけない。やりたいことってなんだ? 夢はなんだ? 十年後に何をしていたいのか? という、ひと通りの自問自答をパスした末に、これといって何かを獲得したわけでもないけど、「まいっか」って言うことができた。お金は、あればほしいんだけど、そのために何をしてもいいかというと、そんなことはないと思う。何で稼ぐかってことは、周りが思うよりも重要なんじゃないかと思う。たとえば必要とされない、自分でいいとも思えない広告を仕事で大量生産して、仕事内容と関係のないパーティーや飲み会で憂さ晴らしをするっていうのはなんか、つじつまがあってないし、そりゃあむしゃくしゃするだろうな。自分がしでかしたことの責任をとれる場所にいて、そこで役に立つことで生きていたい。でも、資本主義社会においてこれは綺麗事に分類されてしまう希望だから、叶えたいなら贅沢をしてはいけない。だから、今は生きるのに最低限のものがあればいい。そりゃ、道端に百万落ちてたら拾うけどさ。そう思ったら、力がわいてきた。いつだって、わたしがわたしを許してくれることがいちばん大切なんだ。ああ。でも、歯を食いしばるのはこれから。


もらったお花がまだ咲いていて、わたしの部屋は汚いけど綺麗だ。

水色の生活

 部屋が花束であふれかえっている。どれも大学の送別会でもらったものばかりだ。ミュージシャンじゃない人生でも、こういうことって起きるんだあ。と朝、起きるたびに思う。わたしは働くだけで精一杯だったのに、こんなにやさしくしてもらって、ほんとうによかったんだろうか。薔薇もダリヤもスイートピーも、名前のわからない白い小さな花も、枯れないうちにちゃんと見ておかなくっちゃ。

 言い残したことがほんとうはたくさんあるんだけど、みんなの笑顔とか、ありがとうって言葉とか、春のあったかい気候とか、そんなものに反射してつい「よかったね〜」って言っちゃいそうになるんだ。でも、いいよね。今は、この水色の空にごまかされていたい。

好きなだけ

よく「好きなものを仕事にすると嫌いになる」って言うけど、あれをどう思う? あれは半分ほんとうで、半分はうそだと思う。なぜなら好きなものを好きなだけでいつづけることなどできないからだ。仕事にしたから嫌いになるというのはちょっと違うと思う。好きだなあというきもちは工夫すればもち続けることができる。たとえばとっても気に入った部屋を借りたとする。3ヶ月もすれば飽きてくる。その都度部屋の模様替えをすれば部屋の顔色はその都度変わり、退去するときには最初見たものと変わり果てているだろうけれど、あなたがいる場所は変わらないし、そうすることで部屋に飽きてしまわずにすむのならそのほうがいいんじゃないだろうか。それは好きでいるための努力にちがいない。

まあ、努力なんてしてないんだけど、わたしは喫茶店でぼんやりと音楽を聞いたりコーヒーを飲んだり本を読んだりするのが相変わらず好きだ。本を読むにも就職情報を漁るにももの書きをするにも、今のわたしには時間がありすぎて、朝目がさめたときに着替えるのが嫌なあまり「幸せとは何か?」という人類の発明した至上命題について考えてしまったりするんだけど、七つ森のオムごはんのオムレツ部分をスプーンで崩す瞬間は完璧な幸せだと信じることができる。食べ物や飲み物はわたしを単純な人間にさせてくれるからいい。

そんなことをだらだらと書いていたら、働いていたお店の大好きなママさんのことを思い出してしまって、しんみりとした。わたしはあそこで働いているほうが幸せなんじゃないかと何度も何度も考えてしまう。初めて会ったとき、短歌を書いてます、と言ったら「おもしろいじゃない」と言ってくれたこと。ガラスのお皿に見とれていたら、まかないをその器にのせて出してくれたこと。お店を辞めないといけないと言ったときにかなしんでくれたときのこと。心配ばかりかけて、あんまり喜ばせてあげられなかったなあ、と思ったとき、なんだかお母さんみたいで不思議になった。顔や性格がわたしの母に似ているとかそういう直接的なことではなくて、ただ、こんな風に思うやりかたが、まるで親に対するときの申し訳なさに酷似しているように思われたのだ。ママさんはまだ30代で子どももいないので、これを聞いたらきっと嫌がるだろう。だから、これはここだけの話だ。朝からの考え事の答えはまだでていない。

黒に藤波

閉園時間ギリギリに庭園美術館に行った。それというのも招待券をもらっていたので。七宝という技法でさまざまな模様の描かれた、やんごとない器の数々を見たのだけど、思っていたよりもおもしろかった。ああいう装飾過多なものがわたしも昔は好きだったのだ。写実的なものや、手数のかかっていることがあきらかなものがいいと思えたのは、今にしてみれば健全な審美眼だったのかもしれない。デザインを勉強してからだと、シルエットのすっきりとしたものを見たいなとか、色の組み合わせを考えるのであれば背景が黒である必要はなかったのではないかとか、置いてある部屋との関係性は特にないんだよなあとか、そういうことが目についてしまってなんだかよくないのだった。

そもそも、おそらくそういうことを気にしている客はわたししかいないのだ、ということに気づくと、なんだか足下の床がスッコーンと抜けて漠然とした宇宙のようなところ(たとえば七宝の背景に使われているぺたっとした黒色で塗りつぶされたような世界)に放り出されて動けなくなってしまいそうなので、わたしはそういうことには気づかないふりをして、ミュージアムショップでアクセサリーを買うマダム達を横目に、安くてあったかいうどんを啜りに行ったりしちゃうんだ。

ほとんどの人々にとって、美しさとは自分の意志や努力とは関係なく自然とうまれてくるもののことであり、そういった神の恵みのようなものに固執するのはすこし頭が悪い人のすることだと思われている。そうじゃないということを私はなんらかの方法で伝えたいのだけど、どうしたらいいのか、考えは宙ぶらりんになったまま、展示室のどこかで床をなくしたまま浮かんでいる。