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水色の生活

 部屋が花束であふれかえっている。どれも大学の送別会でもらったものばかりだ。ミュージシャンじゃない人生でも、こういうことって起きるんだあ。と朝、起きるたびに思う。わたしは働くだけで精一杯だったのに、こんなにやさしくしてもらって、ほんとうによかったんだろうか。薔薇もダリヤもスイートピーも、名前のわからない白い小さな花も、枯れないうちにちゃんと見ておかなくっちゃ。

 言い残したことがほんとうはたくさんあるんだけど、みんなの笑顔とか、ありがとうって言葉とか、春のあったかい気候とか、そんなものに反射してつい「よかったね〜」って言っちゃいそうになるんだ。でも、いいよね。今は、この水色の空にごまかされていたい。

好きなだけ

よく「好きなものを仕事にすると嫌いになる」って言うけど、あれをどう思う? あれは半分ほんとうで、半分はうそだと思う。なぜなら好きなものを好きなだけでいつづけることなどできないからだ。仕事にしたから嫌いになるというのはちょっと違うと思う。好きだなあというきもちは工夫すればもち続けることができる。たとえばとっても気に入った部屋を借りたとする。3ヶ月もすれば飽きてくる。その都度部屋の模様替えをすれば部屋の顔色はその都度変わり、退去するときには最初見たものと変わり果てているだろうけれど、あなたがいる場所は変わらないし、そうすることで部屋に飽きてしまわずにすむのならそのほうがいいんじゃないだろうか。それは好きでいるための努力にちがいない。

まあ、努力なんてしてないんだけど、わたしは喫茶店でぼんやりと音楽を聞いたりコーヒーを飲んだり本を読んだりするのが相変わらず好きだ。本を読むにも就職情報を漁るにももの書きをするにも、今のわたしには時間がありすぎて、朝目がさめたときに着替えるのが嫌なあまり「幸せとは何か?」という人類の発明した至上命題について考えてしまったりするんだけど、七つ森のオムごはんのオムレツ部分をスプーンで崩す瞬間は完璧な幸せだと信じることができる。食べ物や飲み物はわたしを単純な人間にさせてくれるからいい。

そんなことをだらだらと書いていたら、働いていたお店の大好きなママさんのことを思い出してしまって、しんみりとした。わたしはあそこで働いているほうが幸せなんじゃないかと何度も何度も考えてしまう。初めて会ったとき、短歌を書いてます、と言ったら「おもしろいじゃない」と言ってくれたこと。ガラスのお皿に見とれていたら、まかないをその器にのせて出してくれたこと。お店を辞めないといけないと言ったときにかなしんでくれたときのこと。心配ばかりかけて、あんまり喜ばせてあげられなかったなあ、と思ったとき、なんだかお母さんみたいで不思議になった。顔や性格がわたしの母に似ているとかそういう直接的なことではなくて、ただ、こんな風に思うやりかたが、まるで親に対するときの申し訳なさに酷似しているように思われたのだ。ママさんはまだ30代で子どももいないので、これを聞いたらきっと嫌がるだろう。だから、これはここだけの話だ。朝からの考え事の答えはまだでていない。

黒に藤波

閉園時間ギリギリに庭園美術館に行った。それというのも招待券をもらっていたので。七宝という技法でさまざまな模様の描かれた、やんごとない器の数々を見たのだけど、思っていたよりもおもしろかった。ああいう装飾過多なものがわたしも昔は好きだったのだ。写実的なものや、手数のかかっていることがあきらかなものがいいと思えたのは、今にしてみれば健全な審美眼だったのかもしれない。デザインを勉強してからだと、シルエットのすっきりとしたものを見たいなとか、色の組み合わせを考えるのであれば背景が黒である必要はなかったのではないかとか、置いてある部屋との関係性は特にないんだよなあとか、そういうことが目についてしまってなんだかよくないのだった。

そもそも、おそらくそういうことを気にしている客はわたししかいないのだ、ということに気づくと、なんだか足下の床がスッコーンと抜けて漠然とした宇宙のようなところ(たとえば七宝の背景に使われているぺたっとした黒色で塗りつぶされたような世界)に放り出されて動けなくなってしまいそうなので、わたしはそういうことには気づかないふりをして、ミュージアムショップでアクセサリーを買うマダム達を横目に、安くてあったかいうどんを啜りに行ったりしちゃうんだ。

ほとんどの人々にとって、美しさとは自分の意志や努力とは関係なく自然とうまれてくるもののことであり、そういった神の恵みのようなものに固執するのはすこし頭が悪い人のすることだと思われている。そうじゃないということを私はなんらかの方法で伝えたいのだけど、どうしたらいいのか、考えは宙ぶらりんになったまま、展示室のどこかで床をなくしたまま浮かんでいる。

今にしてみればやさしい

地獄みたいにいそがしい、と聞いていた日曜日はなんとか乗りきることができた。注文、お客さんの案内、お運び、レジ、注文、片づけ……。くるくると回るようにその時々のやるべきことをこなしていると、自分のなかに妙なリズムが生まれて、ときどき「自分」という速度を超えられる瞬間がある。それをずうっと維持することはできないから、気をぬかないことが肝心だけど、「それ」ができたときはうれしい。

仕事が終わって、なだれこむように、喫茶店の子たちとメキシコ料理屋へ行って、そのあと、最近できたというビストロへ行った。6人くらいで飲むのが最近はたのしく思えるからふしぎだ。たまたま居合わせた常連さんもいっしょにまぎれこんでいて面白かった。あと、お店をもう卒業しちゃった先輩がきていて、終始話題はその人のことだった。妙な人に好かれちゃう体質の人らしくて、それを心配してまわりの子たちが泣き出したのにはびっくりした。愛だなーと思った。そういえば、バイト中、ずっと叱られてばかりだった先輩が、差し入れを持って心配して様子を見にきてくれたらしいんだけど、それもなんか愛があってうれしいなと思った。

あの日の帰り道がみょうに楽しくて、へらへらしてしまって、それがなんでだったのかを今になって考えていたのだけど、たぶんこの2つのせいだったんだな。もちろん、酔ってたっていうのもあるだろうけどさ。自分のきもちを波立たせているものが人のやさしさだということに気づくと、すこしほっとする。

思い出したい

夜風が痛くない。どこまでも歩いて行けそうでどこまでも歩き、疲れてファミレスに入った。ファミレスにはファミリーしかいない。ドリンクバーに行きづらい。やっぱり喫茶店だな。と思う。ひとりで行くのは喫茶店だよ。うん、来週、あたらしいお店、どっか、行こう。仕事の関係で外出もままならなかった2週間のおかげで、食費をはじめとした、さまざまな生活費が浮いたはずなので、そのぶんのお金を、コーヒーと本についやすことに決める。

年が明けてから日記もろくに書けなかった。そのぶんのきもちはどこにいってしまったんだろうかと、いまのろのろと探している。書かなくてはいけないことがあふれて、ぼんやりとした色彩になってわたしの目の奥に滲んでいるのがわかる。でもそれを取り出すやりかたがわからない。やりかたを取り戻すために、このところ読んでばかりいる。似ているけれどそれではない。このもどかしさだけが、手がかりになる。言葉を出すということは主張を研ぎすますということなので、生活には不都合が多いのだろう。わたしは忙しさにふりまわされ、不都合なわたしを一度捨てたのだ。ゴミ箱に入った紙くずの皺をていねいに伸ばしてみると、案外、いいことが書いてあった、みたいな、そんなありきたりな生活の風景の一部のようにして、わたしはわたしを思い出そうと必死だ。

そういえば、大勢の人と知り合う機会があって、トランプやら闇鍋やら、よってたかっていろんなたのしいことをしたよ。脈絡のない夢みたいな生活だったな。大富豪がやっとおもしろいと思えるようになったので、このきもちを忘れないうちに、またやりたい。トランプってたのしいんだね。やろうよ。

今朝は、3人の可愛い女の子のオバケから大事なものを守って家を逃げる夢を見た。まあ悪夢ってやつね。残業続きの毎日から突然解放された反動か、さながら寝込んでいるかのような状況にある。明日は喫茶店のバイトが入っている。しゃきっとしなくては。休日のお店は休憩をとる暇もなく、ずっと満席で、お昼ご飯を立ったまま食べなくてはいけないらしい。スポーツだと思って頑張ろう。はあ。ほんとうは誰にも急かされたくなんかない。でも、ムリをすることで自分が育てられるんだとしたら、だらしないたましいを奮いたたせる価値はあるのかもしれないと、思いつつある。

あたり

買ったばかりのスニーカーで散歩していたら、左足が靴擦れになってしまった。からだのどこかが痛いと、マイナス思考になってしまう。何かいいことないかな、と思いながら自販機でココアを買うと、ぴーっと音が鳴って、もしや、と数字を見たら、当たっていた。いや、そういうことじゃなくて。と、つっこみながらもあわてて「ほっとゆずれもん」のボタンを押す。 がこん! しまった、両方、あったか〜いし、あま〜い……。と、後悔しながら両方を手にとる。あったかい。ちょっと、うれしいかも。うん、うれしいってことにしよう。春にはすこしにぶすぎる、ペットボトルの輪郭をなでる。

脱線

こんこんと12時間ねむりつづけた。くたびれると、すぐ夜更かしに甘えたくなるけど、やはり睡眠は効く。睡眠と日光が憂鬱に効く。荒れ地となった部屋の手入れでもしようと思っていたのだけど、せっかくの休みなので、すべてをほったらかして、買い物をしに行くことにする。日光がきもちいいせいで、バス停を通り過ぎて駅まで歩いてしまう。わたしは予定外の予定を愛する。

脱線に脱線を重ね、仕事用のスニーカーを買いに行ったのに、気づいたら両手に本をかかえていた。もうだめだ。帰り道、行ったことのないお店に行ってみたくなって、人形の館 というカフェバーでだらだらした。ダッチコーヒー、というコーヒーを頼んだのだけど、ひさしぶりにコーヒーを「おいしい」と思った。はずかしい話、わたしはコーヒーの区別というものがたいしてつかない。ここのコーヒーは区別がつくコーヒーだ。うれしかった。薄暗い店内のあちこちに、ビールの王冠やら古い雑誌やらが積みあがっている。たからものだ、と思った。ここにあるものは全部、たからもので、だからか、ごちゃごちゃとしているのに、とても落ちつく。大学で、いいものにはたくさん触れてきたけれど、こういうたからものには、なかなか出会えない。

たからものといいものはちがうんだよ。そんなこと考えたことないかもしれないけどさ。わたしは考えなくてもいいようなことを、結論を出すこともなく考えていたいだけなんだ、と思った。しあわせになった。たいせつなことを思い出せたから。