花を飾ろう

 癒されようと思って、白いガーベラを一本だけ買って帰った。友人からもらった一輪挿しに活けて寝た。すこし長い茎が、夜まではへなへなと曲がっていたのに、朝になると天から吊られているようにピンと伸びていた。しゃんとしろと言われているみたいで、うれしかった。背筋を伸ばして、きちんと人と向き合いたい。わたしはけっこう、だらしない人間なので、そういったことをひとつひとつ確かめていかないと、すぐに忘れてしまうんだ。ところで、朝になるとトランペットの音階練習が聞こえる。このあたりにはパズウが住んでいるんだろうか。

からだは透明なコップだから

 駅の出口から団地のあかりが見える。団地。一生住まないと思う、集合住宅が嫌いだから。それが今日は、ひとつの生き物のように煌煌とかがやいて、見える。光の温度がどことなくやさしく、月明かりのように霞んで見える。なんだこれは。嫌いなものを受け入れられるようになるときというのは、理由などなくあっけないほど一瞬で、すこし魔法じみている。
 高校生の時、大人に言われた「今がいちばんいいとき」って言葉、嘘だったな。全身くたくたに疲れているけれど、それすらも水泳の授業のあとのようにうれしい。学生のときは、引っ越しも転校も退学もできなかった。でも今は違う。望んだ自由と不都合のなかで、シーソーゲームをしていくだけだ。その緊張感がとても心地いい。もうしばらくのあいだは、わたしは自分のためにしか生きないで、わたしを満足させてやろうと思っている。
 たましいをしまっておくための透明なうつわのようなものが体だとしたら、わたしのコップはまだ仕上がっていなくて、水をそそいだらこぼれてしまう。これではまだだめなのだ。アイスコーヒーでも、ハーブティーでもなんでもいい。何をそそいでもうっとりとしたきもちで口を当てることのできるような、そんな丈夫なコップがこの身にほしい。

まだ広い部屋

 パソコンを開いたら、下の方に一行だけテキストエディットが展開していて、8888888…と羅列した文字があった。拍手だ。

 今、新居にひとりで座っていて、うれしくて、すこしさみしい。やりたい仕事が見つかったはいいものの、物件の契約がなかなか進まなくて、今日まで友人の家を間借りしたり、長野から東京まで新幹線で通ったりしていた。いつになったら暮らしを始められるのか。そういった焦燥感は解消されたが、ほぼ身一つで上京したのでふとんもなければカーテンもない。とても狭い部屋なのに、モノがないせいでやけに広く感じる。足が短いな。モノがないことでみじめに感じるかと思いきや、降って湧いたサバイバルに燃えているところがあって、つくづく慎みが足りないと思う。しかし、ふとんはほしいな。明日からまた仕事だ...。
 
 近所におおきな公園があるから、朝の散歩がたのしみだ。無頓着だった学生時代の引っ越しに比べると、資金は当時より少ないのに幸せな引っ越しをしたんじゃないかと思える。もうすこしがんばれば、もっと機嫌のいい人になれるかもしれないという予感もある。
 わたしはてっきり、「がんばる」って言葉は生活の外にあるんだと思っていた。これはわたしの肌の裏側に刺繍されている宗教みたいなもので、ずっと消えないのだろうけれど、時には指輪のように外すこともできるようだ。がんばる。生活に手を入れる。

どこかで花火の音がする

むかし「風になりたいと思ってるでしょ」と言われたことがある。それもあまり特別ではない文脈のなかで。なんだっけ。いつ、どんなときに、誰に言われたのか、覚えてない。風になりたいと思ってるでしょ。そんなことってあるか? こんな風に疲れないまま迎えてしまった夜のなかでは、とりとめもない、いつの間にか指先に引っかけていたフレーズを思い出して、浸ってしまいがちだ。眠くない。わたしはただ眠くない。

新しい仕事が決まった日の夕方、高速バスの窓から虹を見た。モデルの眉毛みたいな虹だった。たもとは太く、急激にフェードアウトする、思いきりのいい虹。いい人生になりそうだ。そんな風に思ったときの予感を、今も大事に覚えてる。

どこかで花火の音がする。なにかが始まるまでの空き時間を、いつも持て余してしまっている。庭でとったジャガイモをゆでて、夕飯のおかずをこしらえたりしているうちに、わたしの夏は終わりそうだ。チャンスを待って、ただ待って、寝て、本を読んで、映画を見て、書いて、笑う。こんなぼんやりとした夏があっていいのだろうか。車の運転はいつまでたっても気楽にできそうにはないし、しばらく物質的な贅沢はできなさそうだ。わかったことは自分の正直な欲望くらいで、わたしはいつまでたっても冷静じゃない。

ねころんで夜

暑い、どこにも行きたくないと思いながら、寝転び、磨りガラスにうつる光のかけらを見ているときの、うっすらとした意識のここちよさ。10センチだけ開けた窓の隙間から、すずしい風が頬に降りてくる。空気はそこで止まっている。この部屋が嫌いである。生活がとことん下手なわたしの部屋で、唯一きれいなのは外の光だと言えよう。外に出て風にでも当たった方がいい。写真展でも見に行けばいいじゃないか。そう思うが、どうでもいい。もう心底、なにもかもどうでもいい。このどうでもいい気持ちを、抱えた体に光をあて、自然と立ちあがりたい気分になるまでは、そっと寝かせておきたいだけだ。

なんかだるいな、と思ってだらしないことをいくつかした。大事なのは、睡眠時間の固定と安定した食事をとることだ。そういう、ローでフラットな健康状態の継続こそが、幸福に違いない。ただ、0時に寝ることが、この上もなく苦痛な日というのもある。我慢は嫌いである。明日、面接があるなあ。はあと息をついて、体を起こし水を飲むと、頭がすーっと透明になった。競争も嫌いだ。ただ、幸福のために工夫することは好きなのだ。

野蛮

 明日は母の日だから、カーネーションを買おうと思い立ち、駅前に行ったらものすごい行列になっていた。わたしは花が好きなので、たまに花屋に行くことがあるのだけど、並んだことは一度もなかった。なので、それを見てちょっとおかしくてあったかい光景だなと思った。写真を撮ろうとしたけれど、なんとなくやめておいた。この前も、生け垣に片足を乗せて考え込んでいるスーツの人の写真を撮りたかったのに、やめてしまった。写真を撮るということには、ある種野蛮な勇気がいると思う。だからこそわたしはいい写真を撮る人たちのことをかっこいいと思うのだけど、自分の日常に組み込むにはまだまだ抵抗が消えない。

 立ち寄った本屋でなんとなくフランゲールの「夜と霧」を買って読んでいた。しばらくして授業であつかわれていた本だということがわかった。ふしぎだなと思った。そのことには、「もはやなにも残されていなくても」という小節を読んでいるときに気づいた。そこには「誰にも奪うことのできないものがある。それが経験だ」というようなことを書いてある。わたしは気づいたのだけれど、今同時並行で読んでいる、プルーストの「うしなわれた時を求めて」も同じ授業の参考資料だ。大学時代の、学習という目的にすべてが集約されて許される時間はもう過ぎてしまった。それでもわたしを感動させた言葉は、わたしの暮らしから奪われることのないものだった。そのことはわたしを安堵させた。

休み時間

 目の前に運ばれてきたアイスコーヒーを見て思い出した。今日は何曜日だったっけ? 土曜日だ。ということは、今日はバイトがない。せっかく、ここまできたのに。急に思い立って、本のたくさん入った紙袋を持って、古本屋へ立ち寄って、売っぱらって買って、することもないから喫茶店の席について、本を開こうとしたときだった。なんてことだ。目の前には、バイト前のささやかな贅沢。であるはずだったもの。ただの美しい休日になってしまった。コーヒーの混ざった、でっかい氷がきらきらしている。

 なんっていうか、五月の真っ昼間なんかに外に出ると、もう、イエローグリーンの若葉とか、これでもかってくらい咲き乱れてるモッコウバラとか、Tシャツで歩く人々の肩のラインとか、とかから、伝わってくる、初夏の気配にクラクラとする。加えて、買ったばかりの歌集がとてつもなく、よくて。文字のひとつひとつが、わたしの魂についた窓を開けはなってゆくせいで、この体のぜんぶが風の通り道になってしまう。そんな、むずむずとしたキラキラがつまさきから、ぐーっとよじのぼって、頭から飛び立っていくのだ。はあ。なんたる自由。結論。わたしを幸せにするのはわたし。