見えない

いきのびるしかないよなあ、と思う。どうやってとか、どれくらいとか、どうでもよくて、いきのびればいい。びんぼうの暇つぶしに自暴自棄は安あがりで都合がいいけど、健康によくないのは目に見えているし。

これまで何十回も見てきたはずの、バス停からアパートまでをつなぐ、まっすぐな道沿いに、畑が2つあることに今日はじめて気づいた。この前久しぶりに連絡した友人に、この辺りには畑がいっぱいあるはずだよと教えてもらったから、ようやく目に入ったのだろう。「えー畑なんかないよ」「私が住んでたころと、変わっちゃったのかなあ」って、会話、しちゃったな。また会ったときに訂正しとこう。覚えてたら。こういう風に、あるはずなのに見えないことになってるものって、近所にあとどれくらいあるんだろう。来週も天気がよかったら、入ったことのない駅前のパン屋さんでくるみパンを買って、彼女のおすすめの川の近くでだらだら齧ってみようと思っている。

白のフワフワ

近所の緑色の生け垣に、なんらかの白いふわふわが突っ込まれているので、何かと思い近づいてみたら、抱きしめて寝るのにちょうどよさそうなサイズのスヌーピーだった。おそらく洗い立ての。世の中にはこんな風な愛し方もあるのかと思った。

何を見ても何かを思い出す。これって何のタイトルだったっけ と調べてみたらヘミングウェイの書いた何かだった。ヘミングウェイ読んだことない。今は何も思い出すことのない音楽が聴きたくて、Spotifyのシャッフル機能を使って名前の知らない人の歌を聴きながら眠りにつくのを待つことがある。すごくいい映画に「自分のすることを愛せ」というセリフがあるんだけど、それができるようになりたい。

家賃を払いに行ったら、道中つつじが狂ったように咲いており、あの頃はつつじが狂ったように咲いてる町に住んでたな、と5年後くらいにこのマゼンタの花の色を思い出せたらいいと思った。長野に戻りたいとかオレは東京でやっていくんだみたいな、土地そのものへの愛着の持ち合わせがないので、そういう意味では常に「この場所にいつまでいるのかよくわからない」。まあ金銭的な問題もあるんだけど、私は移動が好きだし、この物件に住んでるのはそれくらいがちょうどいいと思う。

たいらな日

きのう表参道に用事があったので、ちょっといいコーヒーショップに行ってちょっといいコーヒーを飲んだのだけど、コーヒーより水のほうがおいしかった。ショックだった。深煎りにしたのがいけなかったのかもしれない。それか、すごくいい水を出してくれたのかも。でも、水のほうがおいしかった。コーヒー2カップに対して水は3杯も飲んでしまったもの。

コーヒーのかおりが好きで、以前の職場でコーヒーメーカーを動かしているときになんて救われる心地がしたものだけど、どうしてもあの黒くて苦い飲み物をぞんざいに扱ってしまうことがある。複雑だ。好きだと思っているけど、マニアには顔向けできない程度にしか好きじゃないな、と思う。なぜマニアに顔向けしないといけないのか。勝手にさせろ。

怒ってしまった。会いたくない人に会わなくていい生活をしているせいか、喜怒哀楽に奔放になっている。暇なんだろうな。きのう会った人に無職の期間を聞かれて答えたら、てっきり同情されるかと思ったのに「いいなあ!」って目を輝かせて、そんなに休みがあったらあれもこれもしたいって想像しはじめたから拍子抜けした。ちょっとうれしかったな。なんでだろう。勝手にたのしそうにしてる人って、見てておもしろいよ。

夕方くらいに帰宅の音楽が鳴って、ふと、わたし今なんにもこだわってないなあと思う。それは自由ってことと近いけど、愉快な気持ちにはさせてくれないんだ。

春は葛藤

いちご大福を買うときに、いつもためらう。食べたいときのきもちと、食べたあとの幸福感がつりあわない食べ物というのがこの世にはたくさんある。その代表格としていちご大福を挙げてみたい。それ以外にたとえるならば、それはクリームソーダにのっかってるさくらんぼとか、とりあえずカレーライスに混ぜておいたニンジンにも言えるのだけど、いちご大福というのは存在自体がアンビバレントな食べ物なんじゃないかって思う。(ごめん、アンビバレントって言ってみたかっただけ。)そもそも、あんことフルーツって組み合わせは「おいしい」より「かわいい」が勝ってるじゃん。

でも今日は特にためらわなかった。レジに並んでいるときに、あのピンクのシルエットが目に入って、食べたいって思って、それから自然にカゴに入れられた。なんでだろう。いちご大福への期待が薄まったのか、がっかりすることに慣れてしまったのか。どっちもか。ピンク色のやわらかい輪郭。無遠慮に透けて見えるあんこの黒色は、もっちりした大福の触感を想像させる。はやく食べたいなー。もしかして、「かわいい」が「おいしい」を内包するようになっちゃったのかもしんない。

春がくるといつも後悔する。春の朝の、どこかだらしないのどかさに馴染めない。冬の寒い風がふく、清潔な朝に未練を覚える。しばらく何も考えたくなくて日記を書かないでいた。「書くことは考えることである。よって書いていないときの人間は何も考えていないのと同じ」みたいな内容の、攻撃的なポップを書店で見たことがある。そのとき隣りにいた友人は書く人でないからか、その言い様に怒っていたのだけど、私は殴られた人の顔になっていたと思う。書いていないときは何も考えていないというより、何も決めていない。前にも書いたかもしれないけれど、私にとって書くということはどこかで自分を決めていく行為を含んでいるので、ちょっとこわいことだと思う。でもこの日記を書いてみたのは、そろそろ何かを考えてみたいと、私のからだが望むようになったということの証左なのかもしれない。なにかを考えてみたい。新しい季節のなかを歩いてみたい。期待と失望の組み合わせ。いちご大福って、新しい季節そのものなんじゃないか。なんてな。

三月はいいにおい

話題が無くて、すきな季節は何かと聞かれたときに、秋と答えたことがある。その人は春が好きだと言っていた。春はいいにおいがするからだという。歩いていたら思い出した。

すっかり昼夜逆転してしまって、昼過ぎまで寝ている。医者にはいいことだと言われたけど、世の中のしくみのことをすべて忘れてしまいそうで不安になる。とは言え、寝るのだけど。すっかり暗くなってからコメダに歩いて行くと、甘いにおいがする。夜に甘いにおいがするというのはふしぎだな。田舎では夜に出歩いたりしないから、街路樹なんてご親切な自然はないから、気づかなかった。これは東京ならではの季節と思う。そういえば、この前会った友人が、ロウバイはいいにおいがすると教えてくれたんだけど、かがないまま白梅が咲いてしまった。そのうち桜も咲くだろう。

ねむれないのはよくないらしい

午後1時、カーテンを一枚だけ開けて、おもちゃみたいなシベリアを食べる。昨日、谷中のちいさいパン屋さんで買った。トートバッグにいれっぱなしにして、忘れていた。おいしい。上司に愛想を尽かし、ついでに病気になったので仕事を辞めたのだが、することもしたいこともない。私が今なっている病気は適応障害と言って、鬱病の一歩手前みたいな、ネットで症状をちょっと読むかぎりだと、単に落ちこんでる人かよみたいな病気なんだけど、これがけっこうつらい。満足に呼吸ができないような慢性的な体の重さがある。でもなんか、これ、気象病ならではのぜん息っぽくもあって、どっちなんだ。とりあえず、この苦しさには名前がついていて、薬がもらえるので助かった。医者にも親にも「眠れないのがいちばんよくないから、だから薬を飲んでとにかく寝るように」と言われた。もらった薬は睡眠安定剤だった。ついにデビューしてしまった。これが病気なら、こんな気分には人生で何度もなったことがあったんだけどな。釈然としないまま、病人である手前、しばらくは病んでいる。

会社を辞めたらもっと清々すると思っていたのに、その日の夜は寝ようとしても、涙があとからあとから溢れて止まらず、寝つけないので困った。最悪な会社だったけど、助けてくれた人がいた。守ろうとしてくれた人がいた。その人に何も返せなかった。それが悔しい。

後悔を感じるとき、いつもその人にもう二度と会えない気がする。生きて同じ国にいても、もう二度と会えない。だからこうやって私は、ひとりで日記を書くしかない。外に細かい雪が降っている。今頃あなたは家に着いただろうか。ねえ、ありがとう。同年代が入ってきてくれてうれしいと言って、アイスコーヒーをおごってくれて、帰りが遅い時には車に乗せてくれて、誰も私のことを褒めたりしなかったのに、あなたは仕事ができないわけじゃない、考え方はあってるからと言ってくれて、ありがとう。

こんなところに書いても届かない。だから口があって声があって、あなた達の隣りに立って生きていたのに、そんなことにも気づかないなんて、私はほんとうにふがいない。どうしようもないからこれからも生きていくしかない。どうやって生きていくかは、もうすこし眠ったら考えるから、もうすこし休んだらきっと思いつくから、どうかあとすこしだけ、夜が終わるのを待っていてほしい。

きみのとうふのたましいを

今日は北区の図書館に行って来た。無職だった秋に都内の図書館を観光していたんだけど、それを久しぶりに再開した形になる。この観光のいいところは、知らない町を歩けるという点だ。図書館というのは基本的に駅からそれなりに離れたところにあるから。私は知らない道をぼんやり歩いてるときが好きだ。自由だなと思う。暮らしていると、いつも見たことのある道ばかりを選んで、行ったことのある道をその通りに歩いてしまうけど、ほんとうはどこにでも行けるし、どこでも生きてはいけるんだ、ということを思い出す。自由という形のないものは、ものごとを定義する脳のやわらかさがないときにしか手の中に見つけられない。しかし、自覚すればすぐにでもこの手につかむことができる嗜好品なのだ。だから私達は、知らない町の知らない景色に、これからも何度でも救われることができるだろう。

駅前に手作り豆腐の専門店があり、何の気なしに立ち寄って、気づいたら絹ごし豆腐を一丁買っていた。手作りだから、とか、専門店だから、といった付加価値にそこまで信用を感じなくなったので、ほんとうになんとなくだった。ただ、家に着いて、味噌汁をつくるときにその豆腐を取り出したら思いがけずどきどきしてしまったので驚いた。そのずっしりとした厚みや、包丁で一筋いれた断面のきめ細やかさに、息をのむような美しさを感じて、キッチンで数秒かたまる。ああ。生活なんかどうでもいい。でもちょうどこんな風な、人のたましいのあっけなくもろいところを、この手で慎重につかみとりたいと思うことがある。この感動をいのちと呼ばずして、どうしようというのだ。