それはミンドゥル

台風がいってしまって、安心したし落胆した。こんなひどい雨と風でも、冷房のきいた教室のなかでやる授業はいつもどおりで、もう獣じゃないんだなと思った。窓にながれる雨の線を数える。最初から数えきれないことなんか知っている。頭のなかがぼうっとして、なにかやわらかいものが、胸のなかで響いている。ほんとうはまだ覚えていたいことがあるけど、そのうち覚えていることを後悔するかもしれない。

昨日は同期と後輩と浴衣を着て出かけた。浴衣を貸してくれて、さらに髪も結ってくれて、なんだか姉が2人できたみたいだなと思った。ゆりかもめに乗って展示を見に行った。数年ぶりにプリクラをとったりはじめてビュッフェを食べたりした。そうだ。あとひさしぶりに綺麗なものを見てすこし安心した。このごろ、何をしても、何を見てもすぐに言葉にならずに消えてしまう。せわしなくて、光はすぐにわたしの前を通りすぎて、言葉が今に追いつかない。でも、途中、下駄がすれて足の皮がむけてしまって、困っていたらかわりばんこに自分たちの下駄をはかせてくれたことを、いつか思い出したいと思った。

やわらかくない

先生が何を喋っているのかだんだんわからなくなって、ノートのすみっこに「ブラックコーヒー」って書いた。わたしにとってブラックコーヒーはやさしいことばだ。飲むのはきらい。カフェオレがすき。広い教室にたくさん人がいて、先生がかなしそうに話す時事問題、聞いてると息が苦しくなる。これほどたくさんの人がいるのに、休み時間、誰もさっきの授業について話さない。もうこの席について随分たつけど、隣りの席に座ってる子に今日はどんな話をしたらいいのか、本当はよくわからない。なんて、言うけどペットボトルで脇腹をつついたら笑ってくれる。何を言いたいのかわからないよ。でも今よりすこしでもやさしいきもちになれるならなんでもしたいと思ったんだ。

まちがえた。これは自分のことなんだから、自分でなんとかしなくっちゃなあ。教室をぬけだして、映画館に行こうかな。ゴジラはどう? 昨夜、弟が突然電話してきて、どうしたのって聞いたらゴジラおもしろかったよ、って。じゃあ今すぐひとりでぬけだして、走って行こうか中央線。ちがう。ほんとはそんなことがしたいわけじゃない。

おやつに持ってきたラムネを口のなかに放りこんで、遠くから目があった人ににっこり笑う。べつになにもおもしろくないけど、笑うとすこし元気がでる。シャッフルで流れてきたドビュッシーの月の光を、はじめて聴いたときのように聴いてしまう。ピアノ弾くのうまいなあって、思う。そりゃそうか。野蛮なきもちをもてあますのは、聞いてばかりで何も言わないからだよ。

横顔

帰りの電車で、目の前に立っている女の人が泣いてた。目のふちをハンカチでおさえていて、ずっと頭より高いところを見ていた。その姿はみっともないどころか、むしろ凛としていて、夏の朝に、しずかな川をながめているようなきもちになった。隣りに立っている人が大きな花束をかかえていて、さっきからうわくちびるのあたりに、野草のにおいがする。泣けやしない。

忘れたいことをひとつ選んで、それから会おう

いや、ちょっと疲れた。短歌のことばっかり考えてる。同じ人に何日も会い続けることが本当に苦手。わたしは絶対にルームシェアとかできないと思う。さわやかなきもちで同じ人に会うのは、週に3日が限度なんだ。なんて、そんな自分ルールを国は認めちゃくれないし。困ったなあ。わかりきっていることが通用しない。こんな自分を、どうやって続けていけばいいんだろう。昨夜また、父に正社員になれと一方的に説教をされて、激怒してしまった。怒るとおなかのあたりが痛い。いつまでこの痛みは続くのか。忘れさせてほしい。でも、怒らなければ負けてしまう。何にだろう。これは正しさの問題じゃない。だって父は正しい。でもわたしだって間違ってない。どちらも折れる気はない。ただひとつわかることがある。人は誰からも、支配されてはいけないんだ。誰も憎んでなんかいないさ。それだけの話だよ。

この町は道が多いから、通学路をすこしずつ変えて帰ってる。住宅街は緑がしげって、いいかんじ。こんなすこしの工夫が自分のことを助けてくれるかどうか、うまくいくかはその日次第だけど、何もしないよりはマシさ。うまくいったら、明日は誰かを笑かす話題のひとつも思いつくだろう。隣りにいるあなただって、何かかかえているのだろうし、そんなかんたんな話じゃないけど、まあとりあえず、笑おうよ。わたしたちは、そうやって忘れていける。そうやって続けていける。しなやかで、けったいな生きものだよ。

愛してみたいが時間がない

笑えるよな。数日前の自分にもう裏切られてる。時間がたてば忘れられるだろうと高をくくっていたことは、たいてい時間がたてばたつほど忘れられなくなることばっかりだ。声をあげたい。それからどうせとり戻したくなるだけでも。駅のホームに人があふれている。なんでだ。中央線が遅延しているのか。駅のホームに人があふれていく。いいさ。電車を待つのなんかやめて、おっちゃんのやってる小さな店で、たまごサンドを食べて帰るよ。(こっちはいつだって急いでなんかいないんだ。)

わたしが痺れるほど気になることは、たいていきみ達にはどうでもいいことばっかりさ。だからって気にしない。それから、いつかとり返しがつかなくなるわけだけど。急かされるのは嫌いなんだ。でも、徹夜明けの、スカイブルーみたいに綺麗なかなしみに、包まれてしまったらもうおしまいなんだ。わかるかな。

ほしかった情報が水族館の魚みたいに通りすぎていく。目があわせられない。魚の目は逃げることができないから嫌いだ。わたしを見つけるのはいつもきみが先。目をそらすのはいつもわたしが先。本当はとっくに負けている話。

ブルガリア

今日はテストだった。毎日8時間あまりぶっつづけで講義を受けている。正直もたない。でも気力の守り方が徐々にわかってきた。「あまり聞こうとしない」ことである。初回の授業で「寝てもいい」と言われ、笑ったが、それってどうなんだ。社会に学びを促す方法を教えてもらっているが、こちらの学びは全く促されていないぞ。

講習は、たのしいこともなくはないのだが、正直言って構内に貼られているポスターからパワポに多用される太丸ゴシック体から言葉のチョイスまで、隙間無くダサいことに気をやられている。頼む、わかってくれ! きみ達のそれは、「ゆるい」のではなく、単に「へた」なだけなんだ! 胸のざわつきは晴れない。それでも今は、小島真由美のCDを貸してくれた子を、明日はどんな話で笑かそうか考えて寝ようと思う。

大抵のことは朝になってヨーグルトを食べれば忘れるのだから。

 

何か足りないものがある
ほんの一寸したものが
ほんのつまらないものが
しかしどうしてもそれを思い出すことが出来ぬ

(現代詩文庫 黒田三郎「発端」より)

 

入り口

どんな音楽を聴いても心がいっぱいにならない。音楽になっていない感情はどうやって手なづければいいのだろう。

先輩が早めの誕生日プレゼントにくれた髪留めをして大学に行く。はじめて行く大学に。まだ在学生の夏休みがはじまっていなくて、大学生みたいな大学生がいっぱい歩いてる。かわいいなと思う。司書講習を受けにいったのだけど、講習生の顔はまだ、たいして見ていない。みんな前を向いてしずかにしていた。廊下ですれちがう、在学生のほうが活き活きとしていて、明るく見える。あたりまえか。ここはきみたちの場所だものね。なんて、あきらめないで明日は誰かに話しかけよう。校舎が白くて、緑があおくて、何もかも、ものめずらしくて、爽やかで、あたりさわりがなくて、素っ気ない。なにかはじまっていくときには。