さらば(そういうことなら)

わたしなりの追悼で書き始めた俳句が、夕方やっとまとまった。きょうは祖母の四十九日だった。偶然きのう知ったのだけど。明日原稿用紙にまとめて封筒に入れよう。すこし楽になった今となっても、人が死ぬということはよくわからない。これについて話そうとすると、自分の体のおしまいに頭がひっぱられてしまって、陽気なことは何も思いつかなくなりそうだ。だから空とか花とかの話をして、わたしはできるだけきもちをぼんやりとさせておく努力をする。明日の朝は何を食べようか。

どこに行ってもゴシップだらけのような気がして、そしてそれをほったらかしておいたほうがいいような気がしていて、しばらく詩の話をしていない。別れの挨拶ばかり上手く綺麗になっていく。さよならだけが人生じゃないなら、これからは悪口よりも、きみの好きなひとの話を聞かせてほしい。

無口なおまえは、落ち葉を踏みに行けばいい

コーヒーを2杯も飲んでしまう前に出かけようか
雨のあとだから 道路には枯れ葉が散らばって
すがすがしくなる破壊のあとだ うつくしいよ
木々は眠りにつこうとしているのに
ブルーのあかりを灯してあらがう
おまえたちは今年も
人工的な色のセーターで
肌色をすこし隠したくらいで安心した
ことにして 
歩いて行くしかないんだね

どうぶつの言葉がわからなくなってしまった
あとの世界で
危険を教えてくれるものは何も無いから
せいぜい コートのポケットのなかに
今日もiPhoneと家の鍵があるかどうか
それくらいは確認しておいたほうがいいだろう
そういった作業に一切の感傷をはさまないことに
いいかげんうんざりしているとしても
そういう文句は世界にむけて言うべきであって
隣人にぶつけてもしかたがないということを
不必要なまでに理解するようになった
無口なおまえは落ち葉を踏みに行けばいい

秋の星よりとうめいなひかり

喫茶店のカウンターで水を飲んでいたら、十字の形の星の名前を聞かれたんだけど、わかんないから素直に「知らないです」って言ったんだ。そうしたら「詩人なのに星のことを知らなくていいの?」ってせめられた。たぶん占い師とかと混同しているんだけど、なんだかセンスのあるセリフだったから、思わず「勉強します」って答えちゃった。わたし、覚えるよ、カシオペヤ・オリオン・アンドロメダ。この町からも見えるのかどうか、知らないけど。でも勉強なんてものはだいたい、役に立つかどうかなんてどうでもいいものばかりだから。

覚えていられることにはかぎりがある。メモをとれない感情が、いつもからだに有り余る。なにか、あなたにどうしても言っておきたいことがあったんだけど、あなたを目の前にすると、それを失ってしまう。いつだって、それはかすかでこころもとない。とおくでしずかに点滅する灯台の合図のように。わからない。それが何なのかまだよくわからない。そちらに行かなくてはいけないとわかっている。でもその方角は風がつめたいから、動きたくない。肌が切れそうにひどい。こんな風をずっと前にも感じていた気がする。だからだろうか、あなたのことがなつかしい。

日曜日

休みなんてあっという間
平日あれほど信仰していた
時計に気づかないふりをして
起きるのにぐずってしまえば真っ昼間

あてのない弁明を
誰にともなくしたい気分だ

本棚に置いてある本は 読みたくて買ったもののはずだけど
もう読んだから読もうとは思わないし
iPodに入ってるmp4は ぜんぶ好きな歌のはずなのに
もう聞きすぎて、何を言ってるのかすらわからない

むずかしいことはむずかしいよ
かんたんになることも
今となっては困難だ
だから夜になったら出かけよう
近所のコーヒーショップに行って
好きでも嫌いでもないカフェオレを頼もう

かんたんじゃない

図書館でかりた那珂太郎の詩集をひらいたら、表3の部分に「新國誠一さまへ」という宛名とともにサインが入っている。おいおい。まじか。この驚きが伝わらないともったいないので説明すると、新國誠一というのは、コンクリートポエトリーという、文字の配置で詩を表現してみせるという、よくわからんことをこれまたかっこよくやってのけた、カリスマ・タイポグラファーのことです。これが意味することはひとつ。新國誠一が詩人からサインをもらった。そしてその本を図書館に寄贈した。那呵太郎さん、なんともクセのきつい文体なのだけど、新國さまが読んでらっしゃったのでしたらがんばって読みます、という敬虔なきもちになったり、ならなかったり。いや、やっぱり好きじゃないもんは好きじゃないかな。


明日カレー食べるのに今日カレー食べた。休みをもらって何をしているかと思えば、小説を読んだり詩集を読んだり漫画を読んだり。ずっと本を読んでいて肩がこる。キーマカレーを食べながら、ぼんやりと自分のしあわせについて考えてみたんだけど、やっぱり多少お金がなくても、初対面の他人に突然見下げられても、このまま今の喫茶店の仕事をつづけて、おいしいナポリタンやお茶を運びつづけていくのも悪くないって思うんだよな。どうして続けていてはいけないんだろうなあってそればかり。そりゃあまあ、もちろん経済面において必要だからなんだけど。それも深刻に、必要になってきたからなんだけど。やってられないよな。金の言いなりって。

ほんとうにほしいものが何かがもっと明らかになれば、話はもっとかんたんなんだ。どうしてかんたんになれないんだろうか。難儀だね人間は。

気休め

きのうは助手さんとインド映画のレイトショーを見に行った。「きっとうまくいく」っていう映画。以前後輩に借りてDVDで見たことがあった。物語にしてはやけに踊るけど、やっぱりすごくいい映画だったよ。あんな風に生きるのはきもちがいいと思う。きみも自分の人生を生きたいなら見るといいよ。余韻にやられて、終電の車内でぼうっと立っていたら、隣りの若者が顔中血だらけにしているので驚愕した。そういえば、東京にはハロウィンという風習があるのだったな。

今日は喫茶店の仕事だった。町がお祭りで、夕方はずっとせわしなかったが、大きなミスもなく、すこしはキッチンの手伝いのようなこともできるようになっている、わたしは先輩にはじめて褒めてもらえた。ちょっと傷ついたら労働のやりかたがわかるようになったのだ。祖母のこととか、進路のこととか、まあいろんなことを考えすぎて、それ以外をあまり考えられなくなったらしい。それがよかった。そもそも、わたしは普段からいろんなことを考えすぎなのだ。お盆を片手でもって皿を重ねろと言われると、左手の開きかたから乗せ方、重心の移動など、些細なことが一から十まで気になって、言語化して理解するまでうまくふるまえない。そういうことを、ショックをうけたらすべて忘れた。そしてからだで覚えるようになったのだ。こういう言い方をすると、むしろ雑になるように思えるが、かえって仕事の効率はあがっている。お客さんを前にして緊張することも前より減ったような気がする。先輩に褒めてもらえたし、お客さんも前より安心してわたしに注文をつけてくれる。

店員としてすごしているときは、詩文などまったく思い浮かばないけれど、人間の文明にふさわしい働き方をしていると思う。文字のことを忘れていられる唯一の時間と言えるかもしれない。清々しい。水泳のあとみたいだ。でも、なんでこうまでして、わたしたちはこうやって生きていたいんだろう、みたいな風には思ったりするんだな。これが、ホームで薄着のまま、乗り換えの電車を待ってるときなんかに。会いたい人の顔を思い浮かべたりして。会えなくなった人の顔がよぎったりして。また読み切っていない本を開く。すべて忘れてしまえないだろうかと思って。忘れたりなんかできないと知って。

どれでもよかった

実家から新米が届くのが待てなくてゆめぴりかを買った。おいしい。ふかふかだ。やっぱり生きるのに必要なのは白米。あとお湯と日光。これだけあればいいんだということを、わたしはこれから何度も何度も何度も綺麗に忘れるんだろうな。

白い封筒を一通郵便局に持っていったら、なんだか力つきてしまってこのごろ寝てばかりいる。それとも一気に冷えこんだせい? 部屋がさむくってどこにいたらいいのかわからない。毛布にくるまる。音楽じゃ物足りなくなってリモコンを手にとる。

テレビを見ることができなくなって随分たつ。たまにひとりが物足りなくてたわむれに電源をつけるんだけど、何がおかしくて笑ってるのか、何で夢中になって人の悪口を言ってるのか、わかんなくって疲れちゃうんだ。はい、ぶつん。詩の悪口は言えるんだけど、人間の悪口ってむずかしくって言えないよ。けっきょく、好きも嫌いも大体同じだ。関心があるってすばらしいことだと思うよ。できればとげとげしたものは見なかったことにして、やわらかい感情だけを交換していたいし、そのほうが趣味がいいと思うけどさ。でもみんな、会ったこともない人間に対しても、どっちかが選べるよね。好きか嫌いか。ねえ、なんでできるの?

わたしは自分が正常かどうかなんて、もうよくわかんないよ。むしろ、ある日とつぜん何が正しいのかわかるようになったら、ちょっと頭がおかしくなったんじゃないかと疑ったほうがいいんじゃない。でも正しさに手を伸ばしている人の切実さって、なんかいいよね。それはわかるよ。ただ、あんまり執着しないことだよ。他人にも、自分にもね。みんな、自分のやりかたで生きてるだけ。きみだって、思い出がなければ、きっとちがうやりかたで生きていけたよ。