生きる冬

「アンディモリ」とだけ携帯にメモしてあったので、気になってツタヤで借りた。ミュージシャンの名前だということは覚えていた。でも誰にすすめられてメモをしたのかは忘れてしまった。わたしにアンディモリを教えたのは誰。名乗りでてください。

帰りにブーツで走ったら頭ががんがんした。ゆれるせかい。なんだこれ。つかれてんのかな。どこもかしこも過労だね。もう忙しいのは飽きたわ。そうも言ってられねえわ。すこし速めに歩いてお茶ばかり飲む。それでもひとりになると、いろいろ、勉強しないとだめだ、がんばらないとだめだ、と思うのだけど、今日は封筒に宛名を書くので精一杯だった。現代詩文庫15冊読んだら体調をくずしたし。どうがんばったらいいのかわからない夜は腹にくるまり、ただでさえ遅いわたしの速度をさらに鈍らせる。今にも眠りにつきそうな日々。生きることが冬。これが地球のうえの話なら、いずれは春もくるだろう。そう思って眠る。ただそれだけ。

傘の不思議

小雨なので傘はささなくていいかと思った。しかし家を出てバス停につくころには本降りになっていた。ぼーっと木の下で待っていたら、見知らぬ婦人が「よければすこしはいってください」と、傘を半分貸してくれた。これで知らない女性に傘をさしてもらうのは2度目。貸してもらうのは4度目。天の助けなんだろうか。人に話すと「ふつう、人生でそんなこと起こらないよ」と言われてしまう。起こりまくってしまう。なぜだろう。バスを待つ10分間、とぎれとぎれに、ぽつぽつとどうでもいい話をした。このへんに住んでいるのかとか、なにをつくっているのかとか。たいした話をできなかったな。どうかあのひとに、明日いいことが起こりますように。

さらば(そういうことなら)

わたしなりの追悼で書き始めた俳句が、夕方やっとまとまった。きょうは祖母の四十九日だった。偶然きのう知ったのだけど。明日原稿用紙にまとめて封筒に入れよう。すこし楽になった今となっても、人が死ぬということはよくわからない。これについて話そうとすると、自分の体のおしまいに頭がひっぱられてしまって、陽気なことは何も思いつかなくなりそうだ。だから空とか花とかの話をして、わたしはできるだけきもちをぼんやりとさせておく努力をする。明日の朝は何を食べようか。

どこに行ってもゴシップだらけのような気がして、そしてそれをほったらかしておいたほうがいいような気がしていて、しばらく詩の話をしていない。別れの挨拶ばかり上手く綺麗になっていく。さよならだけが人生じゃないなら、これからは悪口よりも、きみの好きなひとの話を聞かせてほしい。

無口なおまえは、落ち葉を踏みに行けばいい

コーヒーを2杯も飲んでしまう前に出かけようか
雨のあとだから 道路には枯れ葉が散らばって
すがすがしくなる破壊のあとだ うつくしいよ
木々は眠りにつこうとしているのに
ブルーのあかりを灯してあらがう
おまえたちは今年も
人工的な色のセーターで
肌色をすこし隠したくらいで安心した
ことにして 
歩いて行くしかないんだね

どうぶつの言葉がわからなくなってしまった
あとの世界で
危険を教えてくれるものは何も無いから
せいぜい コートのポケットのなかに
今日もiPhoneと家の鍵があるかどうか
それくらいは確認しておいたほうがいいだろう
そういった作業に一切の感傷をはさまないことに
いいかげんうんざりしているとしても
そういう文句は世界にむけて言うべきであって
隣人にぶつけてもしかたがないということを
不必要なまでに理解するようになった
無口なおまえは落ち葉を踏みに行けばいい

秋の星よりとうめいなひかり

喫茶店のカウンターで水を飲んでいたら、十字の形の星の名前を聞かれたんだけど、わかんないから素直に「知らないです」って言ったんだ。そうしたら「詩人なのに星のことを知らなくていいの?」ってせめられた。たぶん占い師とかと混同しているんだけど、なんだかセンスのあるセリフだったから、思わず「勉強します」って答えちゃった。わたし、覚えるよ、カシオペヤ・オリオン・アンドロメダ。この町からも見えるのかどうか、知らないけど。でも勉強なんてものはだいたい、役に立つかどうかなんてどうでもいいものばかりだから。

覚えていられることにはかぎりがある。メモをとれない感情が、いつもからだに有り余る。なにか、あなたにどうしても言っておきたいことがあったんだけど、あなたを目の前にすると、それを失ってしまう。いつだって、それはかすかでこころもとない。とおくでしずかに点滅する灯台の合図のように。わからない。それが何なのかまだよくわからない。そちらに行かなくてはいけないとわかっている。でもその方角は風がつめたいから、動きたくない。肌が切れそうにひどい。こんな風をずっと前にも感じていた気がする。だからだろうか、あなたのことがなつかしい。

日曜日

休みなんてあっという間
平日あれほど信仰していた
時計に気づかないふりをして
起きるのにぐずってしまえば真っ昼間

あてのない弁明を
誰にともなくしたい気分だ

本棚に置いてある本は 読みたくて買ったもののはずだけど
もう読んだから読もうとは思わないし
iPodに入ってるmp4は ぜんぶ好きな歌のはずなのに
もう聞きすぎて、何を言ってるのかすらわからない

むずかしいことはむずかしいよ
かんたんになることも
今となっては困難だ
だから夜になったら出かけよう
近所のコーヒーショップに行って
好きでも嫌いでもないカフェオレを頼もう

かんたんじゃない

図書館でかりた那珂太郎の詩集をひらいたら、表3の部分に「新國誠一さまへ」という宛名とともにサインが入っている。おいおい。まじか。この驚きが伝わらないともったいないので説明すると、新國誠一というのは、コンクリートポエトリーという、文字の配置で詩を表現してみせるという、よくわからんことをこれまたかっこよくやってのけた、カリスマ・タイポグラファーのことです。これが意味することはひとつ。新國誠一が詩人からサインをもらった。そしてその本を図書館に寄贈した。那呵太郎さん、なんともクセのきつい文体なのだけど、新國さまが読んでらっしゃったのでしたらがんばって読みます、という敬虔なきもちになったり、ならなかったり。いや、やっぱり好きじゃないもんは好きじゃないかな。


明日カレー食べるのに今日カレー食べた。休みをもらって何をしているかと思えば、小説を読んだり詩集を読んだり漫画を読んだり。ずっと本を読んでいて肩がこる。キーマカレーを食べながら、ぼんやりと自分のしあわせについて考えてみたんだけど、やっぱり多少お金がなくても、初対面の他人に突然見下げられても、このまま今の喫茶店の仕事をつづけて、おいしいナポリタンやお茶を運びつづけていくのも悪くないって思うんだよな。どうして続けていてはいけないんだろうなあってそればかり。そりゃあまあ、もちろん経済面において必要だからなんだけど。それも深刻に、必要になってきたからなんだけど。やってられないよな。金の言いなりって。

ほんとうにほしいものが何かがもっと明らかになれば、話はもっとかんたんなんだ。どうしてかんたんになれないんだろうか。難儀だね人間は。