この夏あの夏

この夏の間、サン=テグジュペリをわたしの先生にしようかと思う。数日前に読んだ本があんまりよかったので、なんだか手放せず、気に入ったフレーズを何度も読んでいるのだ。

「僕らは常に、何か人間の生命以上に価値のあるものが存在するかのように行為しているが、しからばそれはなんであろうか?」(「夜間飛行」P.88より)

 



机のうえに本を置いておいたら、「あら、それいいですよねぇ」と声をかけられた。喫茶店のご店主だった。なんだか喫茶店のことばかり日記に書いている。喫茶店はわたしの安らぎである。まあそれはいい。「わたしも本を読んでいたんですよー」と、もっている本をめくって見せてくれた。瞬間、(あ、なつかしい)と思った。それは緑にうもれた別荘の写真だった。もちろん、わたしに別荘などない。ただ、なつかしいのにはわけがある。それは軽井沢の写真だったのだ。軽井沢。最近よく見かける名前だ。ほんとうにあそこは、みんなの記憶の夏にだけ生きている町だなあ。わたしの実家から車で数十分ほどのところだったと思う。車、運転したことないから、忘れちゃったけどさ。

物思いにふけっていたら、「本を読む人と読まない人じゃあ、まるでちがいますよ」というようなことを言われ、おどろいたわたしは、そりゃ宇宙飛行士になる人と宇宙飛行士にならない人は違うし、と言いたくなった。そして、読書家は心のしなやかな人ばかりですよね、とも言いたくなった。黙った。「大学を卒業して、でも何か勉強がしたくて、本を読んでそれをノートに書きつけて、勉強した気になっています」と伝えたら、「わたしも、ちょうどメモをとっていたのよ」と言い、一筆せんに書いた文言を教えてくれた。ニーチェの言葉だった。「自分を尊敬することからはじめなさい。」ということばだった。なんだか気になってしまって、と、彼女はつぶやいた。

しばらくして、本を読み始めた。喫茶店に行くのはひとりになるためなのに、なんだかこのごろお店の人とおしゃべりしてしまう。話しかけてくれるのは、明るくなったということだろうか。仕事をはじめてから、たしかにわたしはたくさんの人としゃべるようになったし、笑うようになったと思う。そんなことを思いながら、南方郵便機のつづきを読んでいた。そうしたら、そこにもニーチェのことばが書かれていた。わたしは、それを後ろで本を読んでいるご店主に教えてあげたくなった。