憂さ晴らし

やってしまった。

就職模擬試験をサボって詩を書いていた。

正しくは、モネの絵を見に上野に行って、

そこでぼんやりと考えごとをしていた。

 

基本的にはまじめに生きていようと思うのに、

たまにこういう、よくわからない衝動がやってきて、

すべて台無しにしてしまう。

 

朝起きて、大学へ行かないといけないとうなだれていたけど、

天井とか冷蔵庫とか切り餅といった、なんてことないもの、

目にうつるすべてが忌まわしくて、救われたいと思ったとき、

心の底から「何かうつくしいものを見て、それを書きたい」と考えた。

その途端、急にすべてがどうでもよくなってしまい、

鞄からアホみたいにダサいSPIの冊子を引き抜いて、机に叩きつけた。

そうしたらのどのつかえがすっかりとれたので、駆け足で身支度をした。

 

荷物を軽くしたい。

でもいつもの革の鞄に、詩を書いているノートは入らない。

何もいらない。

書き残す必要はない。

ただわたしがいればいい。

わたしがいて記憶して、いつか誰かに話そうとしたときに、

きっと言葉になるだろう。

 

正しくなりたいときと、だめになりたいときがある。

だめになったらいけないのに。

わたしのなかの動物がそれを許してくれない。

 

美術館は、平日のせいかずいぶんと空いていて、

ゆっくりと考えごとをするには最適だと思った。

セーヌ川の朝」と「柳」という対照的な2枚の絵の前でずっと座っていた。

印象的な言葉が散っていた。

「モネが風景に詩情を見いだしたように、

わたしたちは駅舎に詩情を見いださなければ」

「風景」と「詩情」という言葉がずっと頭をまわっている。

 

わたしは怖い。

べつに就職活動そのものが憂うつなわけじゃない。

ポートフォリオとか企業説明会とか就職氷河期とかブラック企業とか、

そういうものは別にどうでもいい。

わたしは若者が生きやすかった時代のことなんて知らない。

ただそこにわたしの覚悟がないことが問題だ。

選択に責任をもてないことがどうしようもなく怖いのだ。

だらだらと選択して、間違ったとき、いったい何のせいにするのだろう。

友人か、親か、時代か。

それはどうしようもないバカのやることじゃないか。

 

何か区切りをつけないといけない。

このままでは本当にだめになってしまう。

最近やさしいひとに囲まれて、とても幸せだったから、

それに甘えてしまっているのかもしれない。それではだめだ。

詩情がないのだ。

選ぶということは生活に詩を見いだすということだ。

わたしはわたしを好きだと言ってくれるひとたちに見合う自分になりたい。

 

でもどうしたらいいのだろう。

帰りにドーナツ屋で、ホットミルクとかいう熱い牛乳が冷めるのを待っていたら、

急に受験時代の自分がフラッシュバックして苦笑いした。

よく講評で、さんざんだった日などは、こうしてドーナツ屋のすみでひとり、

熱い牛乳を飲んでいた。

あのときは帰り道にもなると星がよく見えて、前も見ずに上ばかり見て歩いていたけど、

ここでは星も見えやしないよ。

まったくもってバカみたいな夜だ。