血が足りている・いない

なんとなく血が足りないなと思いながら生活している。物理的にそうというよりは、感覚的に。たとえば自分のSNSを見ていてつまらないなあと思うことが増えた。SNSを見ているのは時間の無駄と言うけれど、SNSを見て時間を無駄にするのが私はわりと好きだし、何かトラブルがあるとしても、何も起きないよりはずっといいと思っている。新しいアカウントをつくってみたほうがいいかもしれない。

昼過ぎ、どこにも行く気がせず草刈り機の稼働する音を聞きながら畳に寝そべって『ことばと』を読んでいた。福田尚代さんという人の巻頭表現がめちゃめちゃいいなーと思っていたら、『ひかり埃のきみ』書いた人だった。鬼気迫るような美しい回文をつくる人。こういう、何か降りてきているとしか思えないような詩が、回文というシステムに基づいて書かれていることはいい意味でホラーだし、神秘的でうさんくさい書き手に対して風刺的だなあと思ったりする。別に珍しいことではないのかもしれないが、これが詩として掲載されているのではなく、巻頭表現という項目に掲載されているのはすごく正しいことだと思う。


以前利用した渋谷の喫茶店が閉まっていたのを知り、ブックマークだけして放置していた上野の喫茶店の通信販売を利用してみた。粉を注文したつもりだったのに豆が届く。珈琲豆。つやつやしてる。まあいいか。次の出勤日にお店のコーヒーミルを使わせてもらえないか聞いてみよう。

東京に出ていちばん感謝したのが、こだわりのあるおもしろいお店に自分の足で行けることだった。そこで飲食することも好きだったけれど、ドアを開けてテレビではかからない曲を聴いて店主こだわりの古めかしい椅子に腰掛けていることが好きだった。おもしろいお店に入って行くと、おもしろい世界に参加できているようで、うれしかった。今お手伝いしているカレー屋も、いろいろと大変な時代だけれど、おもしろい世界になるような予感がしている。漠然とだけど。漠然といい予感がするというのはとても希望のあることだ。