汚い

ポピュラーになりすぎたバラードの、もうバラードとしてシリアスに受け止めてもらえないさま。曲名と歌詞をあげつらう知人の半笑いに、何故か「他人事じゃない」と感じてしまう。まぎれもなく、他人事なのに。どうしてこんなに引っかかるんだろう。芸人のゴシップへのまじめな批判。漫画の結末への容赦ないツッコミ。人の熱意に水を差すやりかたがいくらでもあることに気づくとき、私まで、もうずっと半笑いで黙っていたくなる。人の本気さや真面目さや切実さの脆さは、つまり私達全員の人権の脆さだ。だからといって、全員に話を聞いてくれと言うつもりもない。全員が持っているものなんて、つきつめれば誰の持ち物でもない。ただ、目をそらされるとすこし哀しくなるだけで。

この前、長野市に用事があって駅前のあたりを歩いた。美術予備校に通っていたときの記憶がまざまざと蘇ってきて、空気を硬水のように、喉に重く感じた。鉛筆デッサンの講評で「ひとりだけ木炭で描いてるみたい」と言われて、私にも未来とかあるんだろうかと汚い右手で、半目になって空を見ながら帰った。ああいうときに見る星の光って美しすぎて、滑ってると思う。「度胸があるのはいいことだけど」とフォローしてくれた。それ、よく言われるけど、裏目に出てるときにしか「度胸」って言われないなーと、意識の底でうすーく思った。あのときも、講評の終わりにちゃんと「ありがとうございます」って言ったかな。ああいうのって、こちらから何か言わないと先生、終われないんだよね。べつに何を言ってもいいんだけど、「ありがとうございます」って言ったんだろうな。私は叱られても褒められても、すぐ「ありがとうございます」とか言う。そのときはほんとうにそう思っているけど、そのあと、デッサンで大学に合格できるほどには上達できなかったことが、まだ胸のあたりで燃えるように悔しい。

期待するくせに信じてはいない。自分の臆病さが心底きらいだが、あるものを無いかのように振る舞うのは、二百年に満たない人生にもう充分だと思ってしまう。汚いものは汚いままで楽しむこともできる。そういう正しい言い方を探している。