からいピーマン

食卓にピーマンがあると警戒する。母がよく、ピーマンと獅子唐を取り違えて出してくるからだ。それもその日に畑で収穫したばかり、とれたての獅子唐をである。母いわく、間違いなく「ピーマンの種がほしい」と店の人に伝え、買ったものだという。そうしてピーマンとして育てられ、今年も収穫の季節を迎えた、そのやけに細くて小さいピーマンは、やけに辛い。ピーマンの代表料理であるところの「ピーマンの肉詰め」を獅子唐で繰り出されたときはかなり苦しんだ。でも母は「これはピーマン」と言いはるのである。絶対にピーマンじゃない。

こんなに文句を書いておいてなんだけど、私がピーマンを食べれるようになったのはここ数年なので、最初、青椒肉絲(チンジャオロース)風に調理されて出てきたときは(スパイスが効いてるな)くらいにしか思わず、父と弟がニヤニヤとこっちを見ているのに気づくまで、それがピーマンでないという可能性に思い至らなかった。発覚したのは1年前。今日は偽焼きピーマンが出て来た。いつまで続くんだろう。もうこっそりピーマンの苗買って来て、植え変えちゃおうかな。それで、来年の食卓で「今年はピーマン辛くないね!」ってしれっと言い放つのはけっこう楽しそうだ。まあでも、いつまでここにいるかわからないから。

いろんなことを先延ばしにしている。何もせず、何も語らずに黙っていられる時間を与えてもらえて、すごく助かっている。東京の家だと子どもたちの叫び声で目がさめるけど、ここは昼間は鳥の声、夜には蛙の鳴き声がする。人以外の生き物の存在に癒されるだなんて、考えたことはなかった。ここは悪いところじゃない。それでも、そのうちひとりでいることに飽きるだろうか。