同盟サイト/やわらかい椅子

台風なのにコロッケを買うのまた忘れちゃった。台風の日にコロッケを買う文化を知ったの、私は最近なんだけど、みんなやったことあるのかな。小学5年生くらいからパソコンで遊んでるけど、知らない慣習が多くてびっくりする。インターネットの匿名性がもっと高くて、掲示板とかそういうのが今よりずっとずっと活発だった頃、パソコンってもっと、どこにつながってるのかわからないドアを開ける装置みたいな特別感があった。基本的にみんな用心深くて、臆病で、丁寧だった。好きな少女マンガの同盟サイト(なんてなつかしいことばだ!)で知り合った年上の女の子とペンフレンドになって、親に怒られたりして。いや、ほら、親はテレビのニュースでしかインターネットを判断しないからね。まあ何を言われてもやりたいことはやめないんだけど、そんなちょっとした反抗も含めて、あの頃たのしかったな。その人とは、結局10年間文通していた。連絡をとらない期間が間に1・2年あったりしたんだけど、10年して、東京で初めて会ってお茶を飲んだときに、ああ、こんな風に人と出会うこともできるんだってことがシンプルにうれしかった。

田舎だったから、小学校は1学年1クラスしかなくて、それも24人しかいなかった。あからさまないじめを受けたことがないかわりに、誰からも好かれていなかったし誰かに特別な興味を持ったこともなかった。毎日ぼんやりとしていて、混ぜてもらった交換日記はいつも自分の番でとめちゃうし、休み時間にドッチボールに誘われても、それを断ってパソコン用のやわらかい椅子に座ってくるくるするのが好きだった。そういえば、それに気づいて私とあの椅子をとりあってくれた女の子がいたんだけど、あの子元気かなあ。高校生になるまで自分から人に声をかけたことがなくて、相づちしか打てなかったから、あのときの私が文字によるコミュニケーションに目覚めたのは本当に必然的だった。今、身の回りにいる人たちとその子たちを会わせても、きっと友達にはなれないだろうけど、それくらい何かが違うんだけれど、あの頃、もっと自分から人に何かを質問してみればよかった、と思うことがある。時機という、目に見えなくてあまりにもくっきりと私達の間に腰をかけているものが、それをさせてはくれないけれど。

後悔というのは長く生きた人間の嗜好品なのかもしれない。この先、変わっていけばいくほど、「あのとき今の自分であの人に出会えていたら」と思うことがきっとたくさんあるんだろう。そういうことを支えにして、こうしてたましいの痛む部分を確かめている自分を、そんなに悪くない、と思いたい。