からだは透明なコップだから

 駅の出口から団地のあかりが見える。団地。一生住まないと思う、集合住宅が嫌いだから。それが今日は、ひとつの生き物のように煌煌とかがやいて、見える。光の温度がどことなくやさしく、月明かりのように霞んで見える。なんだこれは。嫌いなものを受け入れられるようになるときというのは、理由などなくあっけないほど一瞬で、すこし魔法じみている。
 高校生の時、大人に言われた「今がいちばんいいとき」って言葉、嘘だったな。全身くたくたに疲れているけれど、それすらも水泳の授業のあとのようにうれしい。学生のときは、引っ越しも転校も退学もできなかった。でも今は違う。望んだ自由と不都合のなかで、シーソーゲームをしていくだけだ。その緊張感がとても心地いい。もうしばらくのあいだは、わたしは自分のためにしか生きないで、わたしを満足させてやろうと思っている。
 たましいをしまっておくための透明なうつわのようなものが体だとしたら、わたしのコップはまだ仕上がっていなくて、水をそそいだらこぼれてしまう。これではまだだめなのだ。アイスコーヒーでも、ハーブティーでもなんでもいい。何をそそいでもうっとりとしたきもちで口を当てることのできるような、そんな丈夫なコップがこの身にほしい。