気休め

きのうは助手さんとインド映画のレイトショーを見に行った。「きっとうまくいく」っていう映画。以前後輩に借りてDVDで見たことがあった。物語にしてはやけに踊るけど、やっぱりすごくいい映画だったよ。あんな風に生きるのはきもちがいいと思う。きみも自分の人生を生きたいなら見るといいよ。余韻にやられて、終電の車内でぼうっと立っていたら、隣りの若者が顔中血だらけにしているので驚愕した。そういえば、東京にはハロウィンという風習があるのだったな。

今日は喫茶店の仕事だった。町がお祭りで、夕方はずっとせわしなかったが、大きなミスもなく、すこしはキッチンの手伝いのようなこともできるようになっている、わたしは先輩にはじめて褒めてもらえた。ちょっと傷ついたら労働のやりかたがわかるようになったのだ。祖母のこととか、進路のこととか、まあいろんなことを考えすぎて、それ以外をあまり考えられなくなったらしい。それがよかった。そもそも、わたしは普段からいろんなことを考えすぎなのだ。お盆を片手でもって皿を重ねろと言われると、左手の開きかたから乗せ方、重心の移動など、些細なことが一から十まで気になって、言語化して理解するまでうまくふるまえない。そういうことを、ショックをうけたらすべて忘れた。そしてからだで覚えるようになったのだ。こういう言い方をすると、むしろ雑になるように思えるが、かえって仕事の効率はあがっている。お客さんを前にして緊張することも前より減ったような気がする。先輩に褒めてもらえたし、お客さんも前より安心してわたしに注文をつけてくれる。

店員としてすごしているときは、詩文などまったく思い浮かばないけれど、人間の文明にふさわしい働き方をしていると思う。文字のことを忘れていられる唯一の時間と言えるかもしれない。清々しい。水泳のあとみたいだ。でも、なんでこうまでして、わたしたちはこうやって生きていたいんだろう、みたいな風には思ったりするんだな。これが、ホームで薄着のまま、乗り換えの電車を待ってるときなんかに。会いたい人の顔を思い浮かべたりして。会えなくなった人の顔がよぎったりして。また読み切っていない本を開く。すべて忘れてしまえないだろうかと思って。忘れたりなんかできないと知って。