チューリップこわい

こどものころに怖かったもの、赤いランドセル、黄色いスモック、クレヨン、それからいちめんのチューリップ畑。そんなことを友人と話していたら思い出した。あの子どもたちのことを知っているひとは、世界にどれくらいいるんだろう。わたしたちのことを知っているひとも、この世にどれくらいいるんだろう。


さいきん、恋のことについてかんがえている。ありふれたことだけど、このごろ友人の友人の友人くらいの位置にいる知り合いがちゃくちゃくと結婚しているようだ。めでたいのだけど、遠いから、ほんとうにめでたいことなのかわからなくて、はてなと思いながらSNSの画面をスクロールしてしまう。みんなどうして、こなしてしまえるのだろうか。けっこん、という、幸せについた名前のことが体からなんだか遠い。したこともないのに、その響きにすでに退屈している。ばちあたりだろうか。こまった。男なら修行僧になったのに。中学生のころからそう思ってる。とかく人の世に向いていないのだ。はじめてつきあった人は、正義と明るさを絵に描いたような人だった。とても親切にしてもらったのに、あまり優しくできなかった。

恋で、ひとがひとを好きになるということはなんとなくわかる。じぶんがひとを好きになるということも、たしかにわかる。でもひとがじぶんを好きでいてくれるということが、めっきりわからない。そのせいでこんがらかってしまうのだ。幸せでいてほしいと思うのに、やりかたがわからない。

この前ひとが貸してくれた少女漫画を読んで思ったことは、恋っていうのは「つねに手詰まりになっている」ってことなのかもしれないってことだ。何に、あなたにまつわるすべてのことに。サン=テグジュペリが恋について、「愛する、ただ愛するということのなんという行き止まりだろう」みたいなことを小説に書いていたんだけど、ああうん、そうそう、って思わず相づちをうちたくなった。そう。恋、そこはとてもあかるい、行き止まりなのだ。じゃあ、いま行き止まりになっているこの壁、ここを突破するためには、どうしたらいいんだろうか?