どれでも、好きなものを選んでいいよ

目の奥がじんわりと痛い。肩から背中にかけてがじっとりと熱いのに、指先だけやけに冷たい。昨日から体が重くて気だるかったのだけど、ずっと眠っているだけで休日が終わってしまうのもどうも味気ないからと、出かけることにする。「見に行きますね」と言っていた先輩の個展が吉祥寺であって、今日を逃すともう行けそうになかった。でもひさしぶりに電車に乗ろうとしたら、人の多さやその人達の着ている服の色などにやけに目が疲れてしまって、なんだかいつもの体じゃないのだった。

ギャラリーに着くと、そこのオーナーらしきひとがあれこれと話しかけてきてくれる。ママレード色のひまわりや、形のかわいい電話の版画などを見ていると、すこしだけやさしい気分になるのだけど、途中で自分の感じていることがわからなくなる。知人の展示はむずかしい。いろいろと聞かなければわからないことが文字になってあふれてきて、頭が痛くなってしまった。そこでやっと、ああ風邪をひいているのだなということに気づくのだった。

それでもここまで来てすぐに帰るということもできず、油を売ることにする。しかし服も本も何も見たくないのだった。そうだトートバックを買おうと思い立ち、入った雑貨屋さんで、ガラスのうつわに見とれてしまう。ぼうっとつったっていたら、店員さんが気をつかって、小さいのからジョッキみたいなサイズの、いろんな吹きガラスのうつわを机に並べてみせてくれる。しまいには「最近サボっていたので」と言って、はしから磨いて見せてくれるのだった。そのときのコップのふちの輝き。そのきらめき。それが氷を思わせる透明さで発光していてずっと見ていたくなってしまう。熱でおかしくなっているからということにして、いちばん涼しいコップを買ってしまった。

いよいよ寒気がひどいので、薬局で市販薬を買い、逃げるように電車に乗る。一刻も早く、バスに乗りついで帰りたいのだけど、時刻表を見て喫茶店に避難することにする。路面に面している部分がガラス張りで、ショーケースに入っている背の高いケーキが、暗がりにぼんやりと浮かんでいるのが見える。そこのケーキが好きだった。わたしと入れ違いで、店内にいたお客がみんな帰ってしまう。タイミングが悪かったかなと思いつつ、いつもの席に座ると「ひさしぶり、就活はしているの?」とマスターに聞かれる。学生の時から通っているため、顔を覚えてくれている。わたしはさっき買った薬を飲みながら、ウインナー珈琲をひとつ頼む。「いろいろあって、大学につとめています」「あれ、まだ卒業していないよね?」「したんです、実は。まあ半分は学生みたいなものだけど」「ああそうなのー」わたしは喫茶店の人とたまに会話をするのだけど、その喫茶店で長い会話をするのはこれが初めてだった。めずらしいなあと思っていると、ふいに「ごちそうするから、ケーキを食べて行かない?」と聞かれた。びっくりして聞き返すと、「明日は定休日で、もう売れ残りだから」と言われた。どれでも好きなものを選んでいいよ、と言われ、ながめるモンブランミルフィーユ、シフォンケーキ、ミルクレープ。思わず、「いいことがあったなあ」とつぶやいてしまった。実は風邪ぎみで、せっかくの休日なのに、って落ちこんでいたんです、と打ち明けると、ああそうなのーと言われる。そうして、目の前に置かれたミルフィーユを見ていたら、なんだかどうしようもなくうれしくなってしまって。わたしはそのとき、自分がずっと見たいと思っていたものが、お皿にのって差し出されているのがわかった。

それからは、乳製品や発酵したものは体にいいという話とか、寒天パパがいかに大きな工場であるかという話を聞いた。結局乗りたかったバスは逃してしまったのだけど、家につくころには、体がきちんとわたしのものになって帰ってきていた。