きれいはきたない、きたないはきれい

ずっと日記を書いてないような気がしていたけど、たった一週間、間があいただけだった。日記を書いていたのが、もうずっと昔のことのような気がしていた。体の中を通過する時間が、ものごとによって、伸びたり縮んだりする。たとえば、課題の締め切りはすぐくるのに、たのしみにしている約束の日は一生こないような気がしてしまう。へんなの。

言葉にするのをためらうようなことばかり考えていた。いい加減、観念すべきだなあと思う。まだ言葉にしないでとっておく。先延ばしにしている。はぐらかすことばかりうまくなる。疲れているからと日記に書くけど、それすら建前なのかもしれなかった。もう全部本能で、直感でしかものごとを考えていないような気がする。それが後ろめたいから、わたしはさっさと茶番を辞めたほうがいい。


ギャラリーショップのお店番をしていることをツイッターで告知したら、過去にやっていた、ここじゃないブログを読んでいた女の子が会いにきてくれて、うれしかった。交換日記をすることになった。表紙が絵の具で白く塗りつぶされているのが素敵で、思わずそう言ってしまった。
きょう大学に行ったら、友人がクロッキー帳をこれまた絵の具で(こちらはさまざまな色で激しく)塗っていたので、思わず条件反射でかっこいいねと言ってしまった。
なんでだろう。表紙を塗られたクロッキー帳は、姿勢を崩してくつろいでいる人のようなやさしさがあって、思わずさわりたくなる。あの茶色さがいいのかもしれない。


わたしが疲れているせいで、いろんな人が優しくしてくれるのに、それに応えられない。毎日が下手なクロッキーみたいに過ぎてしまう。印象だけでも描きとろうとして急いで鉛筆を走らせるのに、何もつかまえられなくて紙を無駄にする。破り捨てる。こんなことをしたいわけじゃない。こんなものを描きたかったわけじゃない。頭をかかえる仕草をするけど、そもそもわたしは画家じゃない。
画家でもないのに美しい絵を描こうとしている。

 

本気でないことはすべて嘘かというと、そういうわけでもない。それでも切実さを求める。ドラマチックじゃないと生きていられないから。強い風と瑞々しい緑。うつくしいもののすべてが、愛してないと空しいから。

 

たまにもう、愛なんかやめてしまいたいと思う。うつくしいと空しい。たのしいとつらい。会いたい人がいるとさみしい。マクベスみたいだね。きれいはきたない、きたないはきれい。今度、6月にマクベスの公演を見に行く。それまでに、本を読んでおかないと。

 

やっておかないといけないことがたくさんあって、それに潰されたり救われたりしながら、生きている


noteっていうツールができたらしいから、また場所を変えようかなと思ってるけど、ものぐさだから、多分しばらく様子見でこのままかな。どんなにツールがあっても、インターネットなんてどこもおんなじだから、ほんとはなんにもはじめたくないんだ。