やわらかい月曜日

冬の日のいいお天気って、なんてすがすがしいんだろう。ずっとこんな青空なら、ずっとこんな分厚いセーターで、肩をとがらせていたって構わない。人の家から出て、言葉少なにぼんやりと歩いている、そんな自分がすこし不思議だった。昨日は、以前の職場の先輩と会ってお茶していたんだけど、流れでお家に遊びに行って、前から約束していたタコパを旦那さんと3人でやって、そのまま泊まってしまった。私がはじめての来客だったそうで、布団がないからって、旦那さんが、酔ったままピカソに布団と寝間着を買いにいってくれた。やさしい人たちだった。トランプをしたけど、大富豪もダウトもババ抜きも、ぜんぶ負けちゃった。トランプってなんで勝てないの? 他愛無いことしか話さなかったけど、それで充分たのしかった。これからもっと寒くなるとしても、あの新品のふとんの寝心地が、たぶんしばらくは残って、私の背中を温めてくれると思う。

ポーズ

帰省したとき、家族と初詣に行けなかったので、ひとりで浅草寺まで行ったのだけど、さみしすぎて死ぬかと思った。初詣というのは、人と行くからいいのだな。というより、人とできることの一つとして、初詣がすきだったのだ、きっと。人混みが過ぎて、しばしば仲見世通りの塊はもぞもぞと停止。その度に漏れ聞こえてくる人の声が、「混んでるねー」「神様とかそこまで信じてないけど」「舟和のイモ羊羹食べれればいいかな」なんて、似たようなことを喋ってる。そうだった。私達は自分のことすら切実に祈ってなんかいないのだ。そうやってぐずぐずになっていく感情をこの手で締めあげたくて、五円玉を握りしめたけど、人混みに水を差されるばかりだ。着物姿の可愛い女の子に写真を撮ってほしいと頼まれて撮ったりなんかもして、その子たちの笑顔はほんとうに素敵だったんだけど、そのスマホケースの分厚さのぶんだけ心が遠くに行ってしまうみたい。

そんな風にぼんやりと、心が固まったり和らいだりをくりかえしている。今年は自分のどこかを壊してでもいいから、何かをつかみたい。ちなみに、おみくじを引いたら凶だった。

風にアルコール

誰も隣りに立っていなくてきもちいい。

駅前。厚着した人間達の背中。たこ焼きを買うために並ぶ家族。花屋の店先が、いつの間にか和風になっていて、年末だなと思う。立ち止まって、何か買うか迷う。買わない。昨日のお酒がたぶん身体のどこかに残っていて、私の頭はぼんやりしている。寝すぎたせいもあるだろう。

大きな飲み会のあとは、きまって寝こんでしまう。あまり喋っていなかったからか、気だるさだけを引きずる形に落ちついたが、もし喋っていたら、眠りにつくのも遅かったかもしれない。滅多に飲めなさそうなお高い日本酒があり、会はやけに盛りあがった。すっかりくたびれていた私は、二次会の予定を立てる社の人をさしおいて、同僚と帰った。タクシー代を出すからいっしょにタクシーで帰ろうと何度か誘ってもらい、同乗して帰ったのだった。言葉少なな帰り道に、なんとなく「これは優しさだな」と感じた。ひとりで歩いて帰るつもりだったのを見透かされているような気がした。あとはすこし、守られているような感じもした。

守られるだなんて、今更だ。これはその人に対してではなく、この世界への感想だ。戦いすぎて、優しい人がいるということをたまに忘れたくなる。優しくされると、ひどいことをされたということに気づかされるから。残酷な人にも優しくしたいと思って、なんとか生きて来たのだ。そういう自分なら好きになれそうだと思うから。優しさを、美しさとして信仰している。私にはそういう類いの弱さがある。

ほんとうは、みんなそこまでわるい人じゃないのかもしれない。それでも、私を好きだと言ってくれる人が、私だけを好きになってくれるわけでもないから、物足りなくて好きになれない。女の子だからがんばらなくていい、適当でいいと言われほんとうにがんばらずに適当に、ゆるゆると生きて、愛されても、なんとなくつらくなって、慰め合って、そんな人生はしょうもないね。守られるな。戦えよ。

寒い季節だ。これ以上ぼんやりと過ごしてしまうのはきっと苦しいから、今はつめたいものだけに抱きしめられていたい。

銀のハートマーク

今日は予定もないから、小さな銀のハートマークを、てのひらの上でころころ転がしている。中になにか入っていて、揺らすと低い綺麗な響きがする。こういうのも鈴って呼ぶのかな。昨日会った友人に、クリスマスプレゼントでもらった。他にもお茶とかカードケースとか色々いれてくれてたんだけど、これがいちばん好きかもしれない。つかっているのは耳だけど、ろうそくの火を見ているときのようなきもちになる。

3連休なんていつぶりだろう。いつ過労で人が倒れてもおかしくないような職場で、実際に倒れた人への仕打ちや言い様を見ていたら、苦しくてかなしくなった。かなしいことが起こるたびに、私の思うやさしさや正しさは、私のなかにしかない幻なんだろうかと思う。どうして平気で、人のこころやいのちを削るようなことができるのか。一度も傷ついたことがないのだろうか。私は誰かの傷になることがこわい。

強い風にふかれているとき、なにもできはしないように、いつも立ち尽くしていた。飛ばされないだけの自分だ。怯えや弱さからしか親切にできないことを、誰にも愛と呼ばないでほしい。

この静けさには安心がない

最近の日記を読み返したら「疲れた」とばかり書いてあって、すこし情けなくなった。きょうは特につかれていない。たださむいね。泣きそうだ。

起きているといろんなことを、ひざだけコタツにいれてすこしずつすこしずつ考えようとするんだけど、染色体みたいなヒモみたいなものがくっついては離れていくような、あの感じで、考えは言葉にする前に遠のいていってしまう。この肌寒さには身に覚えがある。大学のパン屋の、べたべたとしたアップルパイを食べたい。クリスマスツリーはなんであんなにも幸せそのものみたいな形をして光るんだろう。冬景色のかしましさに相反して、私のなかは段々と静かになっていく。それでも、この静けさには安心がない。

好かれることも嫌われることもだいたい同じだから、温度のないちょうどいい距離感で誰かのそばにいたいけれど、そんなことは難しくて、いつも挫折する。定期的に見る夢があって、それはこういう夢なんだけど、家に見たこともない動物が押し寄せて来て慌てふためいて、がんばって帰ってもらうっていう。目が覚めて、なんであんなに帰ってもらわないといけなかったのか、ふしぎに思うような、それは可愛いどうぶつたちで、なんだか私の人付き合いのしかたを暗示してるような…そんな夢なんだ。そこが街なら逃げることも隠れることもできるんだけど、家まで来られてしまったら、どこに逃げたらいいのかわからない。クリスマスオーナメントのような遠慮のない可愛さで、閉じている扉を叩く音がする。

いっしょになれはしないのに

いろんなことに疲れきっていてどうしたらいいのかわかんない。やりたいことはあるんだけど、どこから手をつけたらいいのか整理なんてつかないから、とりあえずトーストを焼いたりシャツを干したりしているうちにくたびれて眠ってしまう。焦りばかりが先走って、地平線のむこうで輪郭をゆがませている。だらしないまま愛されるならいいのに、そういうわけでもないから明日も顔を洗って出かけるんだろうよ。

週明けまでのタスクが無事に終わるのか不安で、今日も残業してしまった。質のいいものをつくりたいという気持ちはあるけど、集中力がつづかないから終電より前に帰路につく。帰り道、高架下でハーモニカを吹いてるおじいちゃんがいて幻覚かと思った。ていうかハーモニカ、めちゃくちゃうまくて。ハーモニカって上手にふけたことないし、現実味、ないなーと思った。まあそんなことはいいんだけど、このところはもう二度と会うこともないだろう人達がやけに夢に出てきて、そのせいかあまり寝覚めがよくない。その人たちはみんな、明るくて周りに人がいっぱいいたから、きっと私のことなんて、もう忘れてしまっただろうけど。

明るい人がいつまでもうらやましい。人と距離を置かずに話せて、頭の回転が速くて、本なんか読んだことなくて、約束をすぐに破って、でもすぐに許したり許されたりできる、そんな人たち。そんな風に生きられたらよかっただろうな、といつも思う。思うけど、そういう人たちと仲良くできない。やさしくしてくれるのに、そのときにはそれがよくわからないから。

あなたに私のことなんてわからないと突き放すには、あまりに見透かされている。そういう人たちのさみしさを、きっと一生理解できないまま、めずらしい鳥の名前を言い当てるように見つめてしまう。

あたま

朝のひかりのつめたさに頭痛がする。目を細めてもじゅうぶんに明るいのに、11月の朝7時過ぎを歩くには、この上着はもう軽すぎたみたいだ。薄いむらさき色のコートの前をあわせて、深呼吸する。このコートは私にあまり似合っていないけど、まるでいつか見た朝焼けみたいな色だから、羽織って腰のあたりの色を見下ろすのがすきなのだ。

ひかりにも頭とからだがあるだろうか。だとしたら、私の目にとどいているものはきっと頭だとおもう。いつもそれはおおきくて重たいから。

実体のない焦りと不安でぼーっとする。休憩時間に読もうと思って鞄にいれた本を、休憩時間に読めたためしがない。それでも毎日のように取り出しては戻す自分の仕草は、なんだか使わない教科書を運ぶ小学生のようで。