この静けさには安心がない

最近の日記を読み返したら「疲れた」とばかり書いてあって、すこし情けなくなった。きょうは特につかれていない。たださむいね。泣きそうだ。

起きているといろんなことを、ひざだけコタツにいれてすこしずつすこしずつ考えようとするんだけど、染色体みたいなヒモみたいなものがくっついては離れていくような、あの感じで、考えは言葉にする前に遠のいていってしまう。この肌寒さには身に覚えがある。大学のパン屋の、べたべたとしたアップルパイを食べたい。クリスマスツリーはなんであんなにも幸せそのものみたいな形をして光るんだろう。冬景色のかしましさに相反して、私のなかは段々と静かになっていく。それでも、この静けさには安心がない。

好かれることも嫌われることもだいたい同じだから、温度のないちょうどいい距離感で誰かのそばにいたいけれど、そんなことは難しくて、いつも挫折する。定期的に見る夢があって、それはこういう夢なんだけど、家に見たこともない動物が押し寄せて来て慌てふためいて、がんばって帰ってもらうっていう。目が覚めて、なんであんなに帰ってもらわないといけなかったのか、ふしぎに思うような、それは可愛いどうぶつたちで、なんだか私の人付き合いのしかたを暗示してるような…そんな夢なんだ。そこが街なら逃げることも隠れることもできるんだけど、家まで来られてしまったら、どこに逃げたらいいのかわからない。クリスマスオーナメントのような遠慮のない可愛さで、閉じている扉を叩く音がする。

いっしょになれはしないのに

いろんなことに疲れきっていてどうしたらいいのかわかんない。やりたいことはあるんだけど、どこから手をつけたらいいのか整理なんてつかないから、とりあえずトーストを焼いたりシャツを干したりしているうちにくたびれて眠ってしまう。焦りばかりが先走って、地平線のむこうで輪郭をゆがませている。だらしないまま愛されるならいいのに、そういうわけでもないから明日も顔を洗って出かけるんだろうよ。

週明けまでのタスクが無事に終わるのか不安で、今日も残業してしまった。質のいいものをつくりたいという気持ちはあるけど、集中力がつづかないから終電より前に帰路につく。帰り道、高架下でハーモニカを吹いてるおじいちゃんがいて幻覚かと思った。ていうかハーモニカ、めちゃくちゃうまくて。ハーモニカって上手にふけたことないし、現実味、ないなーと思った。まあそんなことはいいんだけど、このところはもう二度と会うこともないだろう人達がやけに夢に出てきて、そのせいかあまり寝覚めがよくない。その人たちはみんな、明るくて周りに人がいっぱいいたから、きっと私のことなんて、もう忘れてしまっただろうけど。

明るい人がいつまでもうらやましい。人と距離を置かずに話せて、頭の回転が速くて、本なんか読んだことなくて、約束をすぐに破って、でもすぐに許したり許されたりできる、そんな人たち。そんな風に生きられたらよかっただろうな、といつも思う。思うけど、そういう人たちと仲良くできない。やさしくしてくれるのに、そのときにはそれがよくわからないから。

あなたに私のことなんてわからないと突き放すには、あまりに見透かされている。そういう人たちのさみしさを、きっと一生理解できないまま、めずらしい鳥の名前を言い当てるように見つめてしまう。

あたま

朝のひかりのつめたさに頭痛がする。目を細めてもじゅうぶんに明るいのに、11月の朝7時過ぎを歩くには、この上着はもう軽すぎたみたいだ。薄いむらさき色のコートの前をあわせて、深呼吸する。このコートは私にあまり似合っていないけど、まるでいつか見た朝焼けみたいな色だから、羽織って腰のあたりの色を見下ろすのがすきなのだ。

ひかりにも頭とからだがあるだろうか。だとしたら、私の目にとどいているものはきっと頭だとおもう。いつもそれはおおきくて重たいから。

実体のない焦りと不安でぼーっとする。休憩時間に読もうと思って鞄にいれた本を、休憩時間に読めたためしがない。それでも毎日のように取り出しては戻す自分の仕草は、なんだか使わない教科書を運ぶ小学生のようで。

冬の終わりとはじまり

徹夜して美容院に行った。40分くらいバスに揺られる予定があったから、アップルミュージックをいじくり回していたんだけど、秋の午前中に似合う曲がわからなくて、あんまり冴えなかった。頭がぼんやりしていて、美容院の鏡にうつってる自分の目がなんだか弱っちいと思った。夜に寝ることをいいかげん思い出さなくちゃ。

夕焼けのオレンジ色に、鶴を折るときのようなやさしさで、こころに丁寧な皺をつけられる。こんな時間に外に出ていられるのもあと2日と思えば、目にうつる全てがどこか慕わしい。11月から新しい仕事がはじまる。決まったときはうれしかったんだけど、ものごとのはじまる前っていうのがいつも苦手だから、今はもう、うれしいっていうよりこわい。新学期の前、合宿の前、冬の終わり。でもそういえば、大晦日は好きだ。年末、12月中盤までの忙しさをくぐりぬければ、あのあったかいだらしない一日がくる。そう思えば。そう思えば長い冬を、きっと自分の手ではじめることもできる。

ひかりに疲れても

ひとりでいることにつかれちゃって、夕方のコメダ珈琲でぼんやりしてたら、LINEにメッセージがきた。正直ほっとした。iPhoneの振動は動物の身震いみたいで好きだな。8年間同じガラケーを使っていたときは、意地でもLINEなんかしないって突っぱねてたのに、人って変わるよねー。LINEって最高。みんなとつながっていられるなら、不服な進化も受け入れるよ。きっとね。ぬるくなったカフェオレを飲み干して、私は生活を再開する。スーパーに行くのだ。

よくわからないんだけど、朝のひかりの言うとおりに起きるとつかれてしまう気がして、午前中は寝ていたよ。よくわからないっていうのはつまり、理由がわからないってことさ。孤独につかれちゃったのか、それとも周期的なものなのか。そもそもつかれってなんだよ。生まれてこのかた、つかれてるような気もする。怠惰を性格にしちゃ損だな。

やけに道路に枝が転がってるから、うお、熊かと思ったけど、そういえばここは東京で、昨日は台風だった。みんなは大丈夫だった? とりあえず、足下の障害物によろけながら生きていこうね。それでいいんだよ。私はあなたのそばにはいないけど、同じ方向を見ていると思う。そこのあなたも、あっちのあなたも私のそばにはいないけど、信じてるよ。信じることにはつかれないんだ、何故か。

海のむこう

夜中にエッフェル塔の写真が届く。指先でズームする。フランスにいる先輩と、交換日記のように時差のあるLINEのやりとりを続けているんだけど、これがなんだかとても楽しい。なぜフランス人はフランスパンを剥き出しで持ち歩くのか、という考察が名文なので、みんなにも読んでほしいくらいだ。

ここ数日、杉崎恒夫さんの「パン屋のパンセ」を読みこんでいる。私は一度読んだ本を読み返すってことを滅多にしないから、これはかなり好きってことだ。たった一行の透明な世界。肺炎で亡くなられたからだろうか。文字にふくまれている酸素が多い気がする。ぜん息気味のときに読むと心地いい。もっと書きたいことがあったような気がしたけど、もう亡くなってしまった人の本を買っても、もう読んでもらえない感想を書いても、なんだかしょうがない気がする。間に合わなかった感想を書いている。

不可思議/wonder boyも笹井宏之さんも26歳で亡くなった、ということを8月の誕生日以来、やけに思い出している。よくない傾向だ。死ぬことにも生きることにも、意味なんてない。作者の死によって作品が完成するとほんとうに思っているのであれば、かんぺきな一編の詩を書きあげた、あのはじめての朝に死んでいればよかったのだ。

覚えている

連休中は祖母の3回忌があり、実家に帰省した。前日、末の弟がピアノを教えてほしいとせがむので、途中まで読みを書いてあるジムノペディの楽譜を渡して、ピアノで遊んでいた。そういえば今までも何度か頼まれて、その度冴えない返事をしてうやむやにしていた。教えられるほど、ピアノを知っているか不安だったのだ。楽譜は昨年の夏休みに買ったものだ。まだ弾けない。しかしバイエルは捨ててしまっていた。電子ピアノの鍵盤を撫でて、基準となるドの話やト音記号ヘ音記号の話、シャープの効果など、ごく基本的なことを話した。ピアノを習っていたのはもう十五年も前のことなので、自分がすらすらとそういった情報を口にするのを不思議に思った。

身体で覚えたことを、覚えていることをいつも不思議に思う。言葉で思い出せないことはすこし信用できない。弟は今年大学生になったのだが、今でもギターでの作曲をつづけているらしく、楽譜の読み方がわかってうれしいと喜んでいた。ピアノとギターの違いも教えてくれたのだが、私はあんまりよくわからなかった。まあこいつが楽しいならいいかと思って流して聞いていたのだが、ふと「姉ちゃん、最近絵を描いてる?」と聞かれた。本ばかり読んでるよ、と言ったら、絵も描いた方がいいよ、と言われた。てらいなく言うので、そうかもしれないなあ、と思った。