6月のクリスマス

数えきれないくらいたくさんのお菓子と花束をもらって、ほろ酔いで帰る。今日が最終出勤日で、はじめて上司と先輩と3人でお酒を飲んだ日だった。紙袋いっぱいに詰まったプレゼントを見て、「クリスマスみたい」と言ったのは先輩の声。まっすぐすぎる帰り道のちょうど真上に、クレーターのないきれいなお月様が煌煌とかがやいていて、こんな夜に見るにはおあつらえ向きすぎた。プレゼントの入った紙袋を持つ手が痛くて、たくさんのやさしい縁を断ち切ってまで、いったい何を変えようとしていたのか、何か守れたのか、よくわからずに、駅から徒歩15分の帰り道、たっぷり絶望した。無関係なものごとをつなげて考えてしまうのは、人生に伏線があると信じている、どうしようもない私の楽観によるものだ。満月が家までついてきてくれるので、今日のところは泣かずに済んだ。

梅雨とコーヒー

黒い傘を持っていてよかったと思うのは、機嫌が悪いときだ。梅雨だけど、まともな傘を1本しか持っていないので、コンビニで買った折り畳み傘を毎日かわかして使っている。雨はどちらかというと好きなのだが、低気圧で体調が悪いのが困る。私はいつも、体調が悪いのか人生がうまくいっていないのかの区別がつかない。

ご機嫌とりに珍しく部屋でコーヒーをいれてみる。インスタントコーヒーは、あのちょっとずつ、ドリッパーからこぼれないようにお湯を注ぐという繊細な行為と、そのとき一瞬だけ部屋がコーヒーの匂いになって、そのことしか考えられなくなるという現象が好きで、気に入っている。いいにおいや気分に満たされたいというだけで、本当はコーヒーの味なんかあんまりよくわかっていないと思う。まあ、それでいいのだが。マグカップをもつと、あたたかい。あたたかいというのは、いいことだな。

ボールは回ってきている

夕方、公園の近くを歩いていたときのことだ。バスケットボールが落ちていた。ふと左上を見上げると、目より高い位置に、水色のスニーカーが見える。生け垣の向こうの柵を、小学生らしき少年がよじ登ろうとしているところだった。反射的にボールをもつと、こちらに気づいたのだろう、笑顔で「すみません!」と言われる。投げろってことだ。投げるポーズをとる。でも、彼は動かない。大丈夫かな? はい、と声をかけて、ポーンと投げたら、サッと動いて、すかさずキャッチされる。驚いた。「あぶねー」そばにいた友達っぽい子がうそぶいているが、我々は、目だけで「やるじゃん」という顔をして、その場を離れた。綺麗な目、しやがって。

こんなことばっかりだな。言葉なんかさして交わしてないのに、ふとした瞬間、「わかって」しまう。気づくと私の番が回ってきている。回ってきたら私は、あなたが受けとる受けとらないに関わらず、手の中にあるボールを、ポーンと投げたくなってしまうのだ。

プードル

そうは言っても形にすることを生業としているので、毎日ピンセットで活字をつまむ。紙を出し、箔押し機のハンドルを回し、なんてことないアルファベットの煌めきを、120℃の熱を借りて印刷する。この指先への、抵抗を愛している。なんの意味もないのに、光っているとうつくしいな。ため息が出そうだ。

今日もまた、デモンストレーションで印刷機を動かしていたら、いつの間にか小さなお客さんが夢中になって見てくれていた。私はあの目に弱い。印刷し終わった紙をじっと見つめてくるので、駆け寄って、いる? と聞いたら、黒目の大きなかおをきらきらさせて頷いて、小さな手で持って行ってくれた。ほんとうに、ほしかったんだ。よかった、と思った。印刷につかっていた紙は、過去に制作に失敗したときのヤレ紙だったが、このときだけ、あの紙は、誰かに必要とされるものとして、形を与えられたのだった。ふしぎなものだ。小さな後ろ姿を見送りながら、デパートの広場でピエロがつくった風船のプードルを、私はもう貰ったりしないのだろうということを、ふと想った。

願かけ

人に喋ってすっきりしたことは、大体うまくはいかないので、ほんとうに叶えたいことは黙っていないといけないのかもしれない。雨音がトトトトと続いていて、いい音楽だ。この部屋で迎える梅雨はそれほど悪くないかもしれないと思い直す。古い部屋を借りているので、たまに見たこともないような虫がでる。湿気により、虫の世界もにわかに活気づいている。しかし世界はつながってるいるのだから、どこへ逃げても同じ、と思い気を引き締める。でも、次はもう少し新しいところに住むと思う。

友人と紙のイベントに行ったのだけど、人が多すぎてぼんやりしてしまった。もんじゃ焼きというゴールのよくわからない食べ物をお昼にしたら、がんばっているうちに食べ終わっていた。でもふしぎとまた食べたい気がする。なんでだろう。近況報告をしたら「波瀾万丈だね」と言われ、これは波瀾万丈と言うやつなのか? とキョトンとしてしまった。そんな風には思わないのだけど。私は、退屈さえしなければ生きていられると思う。景気づけに浅草寺でおみくじを引いたら、凶だった。なるほどねと思った。

その気になったかい

私のことを好きだと言ってくれる人々にその理由を聞いて回り、ひとしきり否定したい。そんな帰り道がたまにあり、今夜がたまたまそれである。せめてヒステリーくらいヒステリックに起こしたいものだが、結局しないので、0時を以てヒステリー未遂となる。

夜道、紫陽花、ぬるい空気。ラとファの音で適当な歌をつくって帰る。どんなに条件のいい求人情報を見ても気が乗らない。ほんとうは、文学以外にやりたいことなんてない。でもお好み焼きの前で、その情熱がどれくらい情熱なのかを語れと言われても、もう語れないだろう。こんな気持ちを、いったいどんな言葉で、どんな声で言えばいいのか、わからないのだ。生きていることへの焦りに焼かれていない人に会っても、何を喋ればいいのかわからない。こんなに優しくしてくれるのに、言いたいことが見つからない。薄情な話だ。きっとこうやって人を失うんだろう。こわいな。

私は「それっぽく」話すのが得意なので、ちゃんと頭をつかって話せば、結構な確立で人を「その気に」させることができる。ただ問題は、私は筋道を立てて話すのが得意なだけで、筋道を立てて生きられるわけではないということじゃないだろうか。いくら正しいことが頭でわかっていても、正しさのためだけには生きられない。これはでこぼこの海の上を、葉っぱのボートで行く道だから。

思うのだけど、演出が上手くなればなるほど、本質的な意味での信頼を欠くんじゃないか。想定していたよりもずっと、事態が自分の思い通りになってしまって恐い。私は畏怖されたいのではなく、あなたに信頼されたかったのだが、それもまた、今月を以て未遂となる。

たとえばちいさな白い紙のように

窓ほどもある、おおきな白い紙を、無心で名刺サイズに切り続けていたら、すこしだけ透明なきもちになれた。ゴツゴツしたカッターで切った、白い紙の、やや盛りあがった輪郭。直線はうつくしい。切ってしまったということの、このどうにもならなさが、たまらなくいい。とりかえしのつかなさ。もとの紙よりもややシャープに、世界のなかでポツンと浮いている。手を加えたものたちの、「存在している」という潔さが好きだ。

仕事中、女子中学生のような嫌がらせを、自分より二周りも年上の男性から受けて、たまに呆然とする。今日も接客中、聞こえよがしにこちらのお店の商品を悪く言われた。今までだって、挨拶を無視したり、断りもなくディスプレイの写真を撮ったりということは毎日だった。しょうもないことが多すぎて、今まで笑って済ませていたけれど、こんな別れ際になってまで、まだ「したい」のかと思ったら、失望と怒りがないまぜになって、前がまっすぐ見られなくなった。

元に戻らない。だめにしてしまえば、もとに戻らないものもある。でも、私のたましいはどうだろう。他者の人生のなかで、都合のいい悪役を押しつけられて傷つけられるのは、べつにこれが初めてじゃない。いつも思うのだけど、いっそドロドロにひとを呪えたら楽になれるのだろうか。それでも私は、眠って起きれば大丈夫になっているのだろうな。私のたましいは、手元にあるこの白い紙のような、何の役にも立たないようでいて、確実にうつくしい、そういうもののためだけに使う。そうしなくては、いろんなことが嘘になってしまうと、そう思う。