やさしさの前例

どうも春らしい。くちのなかがさっぱりしたいと言っていたので、レモンの入ったパスタを食べた。おいしい。いけないな。食べたいものを我慢できない。おいしいな。つかれたな。おいしくてうれしいのに、泣けてきた。

この前、隣りのお店の社長と口論になり、閉店作業をしながら泣いていたら、違う用事でお店に立ち寄った社員さんに見られてしまった。当然向こうもびっくりしていたので、何か聞かれるかと思ったら、何も聞かずに翌朝、チョコレートと桜味のインスタントコーヒーをくれた。ので、朝からまた泣きそうになってしまった。顔を合わせるたびに、なにかお返しをしなくちゃと思うのだけど、こんなことは前例がなくて、どうしたらいいのかわからない。

それにしても、まさか人前で泣いてしまうとは思わなかった。基本的に、家につくまで泣くのを我慢できる方の人間だと思っていたんだけど。あ、でも大学ではよく泣いていたけど。ありゃ。うまくいかないな。もっと格好つけていたいのに、生活はみっともなくて、ままならなくて、それでいて、たまにやさしくされすぎる。

花の幽霊

昨年の春から写真を撮り始めた。ボタンを押せば撮れるインスタントカメラで。きっかけがどれだったのか明確にはわからないのだけど、バラ色の日々 というMVに使われている写真がたまに見たくなる。フィクションの優しさに支えられて過ごしてきたというのに、現実の強さに砕かれたくなるのはなんでだろうか。

現像した写真の一枚目は、昨年いろんな人からもらった、お別れの花束を活けたものだった。花瓶が足りなくて、ペットボトルの口を切って、4つくらい並べていたっけ。まだ何も予定が決まらない私の、西向きの部屋で、白い花が明るかったことを覚えている。大学の授業で露出とか絞りとか、いろいろ教えてもらったのに、未だに逆光という概念のことがよくわかっていなくて、撮った写真は青白く、花の色までは映していなかった。

お祝い

結婚式にお呼ばれして行ってきた。新郎新婦とも大学時代の先輩後輩だったけど、おつきあいしていること自体を招待状で知り、見たときはへんな声が出たものだった。わたしに見えないところでいろんなことが起きてるんだなぁ。まだ親戚以外の結婚式というものを、これを含めて2回しか経験していないのだけれど、最高の結婚式だった。受付で芳名するとコインがもらえて、版画作家の新郎の作品缶バッチがもらえるガチャガチャができたり、会場がギャラリーみたいになってて版画が見れたり、お土産に新婦の名前をもじったじゃがりこをもらったり。ものづくりって生活と関係ない要素だと思われがちだけれど、こんな風に人生に華を添えることができるのは美術だけだよね。とても素敵だなぁ。

学生時代にブログのつながりで知り合った人たちと、数年ぶりに顔を会わせられたのも、なんだかうれしかった。手羽先の屋台を出したね。あのころはつなぎを着て鉄板を囲んでいたのに、今日はおしゃれをして、白いきれいなテーブルを囲んでいるんだね、と思わず口に出して言い合うのは、とてもうれしいきもちがすることだった。ふくさやご祝儀袋を確保するのに必死で髪のセットのことをすっかり忘れ、とっちらかった頭で行ったら見かねた先輩がきれいにしてくれた。もったいなくてなんとなくほどけない。

みんなでお祝いをするっていいものだ。またおめでとうと言いたい。すきな人たちよ、わたしにおめでとうと言わせてください。

あかるい洞窟

夕方、天気を味わおうと思って玄関のドアを開けたら、想像以上の大雪だったので、パタリと閉じた。今月いっぱいは月曜が休みなので、ラッキーだったな。食べ物ないけど。お茶漬けでがまんする。なんだか、嵐って感じだ。ここが雪山の洞窟だったらよかったのに。もうそうする。火に薪をくべて、パチパチと、うつる影を見るところを。うとうとと寝てししまうところを。それってなんてしずかで、きもちがいいことなんだろうか。

遭難へのロマンは尽きない。遭難しているのがわたしだけでないのなら、そうしたら、できるだけ生活に関係のない、退屈な話がしたいね。きっと、いつもよりほんの少しやさしいきもちで話せるはずさ。そうだ。きみはプラトンの、洞窟の比喩というのを聞いたことがあるかい?

約束する

私的な話をしてもいい人たちと久しぶりに会い、たましいの焦点のあわせかたみたいなのがよくわかんなくなってしまった。仕事をしていると自分のことを考えずに済むから、それはからだにとって、とてもいいことだと思うんだけど、おざなりにしすぎていると、どうもこういうことが起こるらしい。

間をもたせるために働いているようなところがあるのだろう。どんな風に自分のことを話せばいいのか、いつもよくわからない。とにかく、げんきでやっている。もちろん、ずっとこのままでいいかと言うとそれは違うけど。

もう少し待っていてほしい。きっと間に合うから。

ぜんぶ忘れてしまう気がする

手ぶくろをどこかに落とした。くたくたの、安物の、なんてことない手ぶくろだけど、母が買ってくれたものだった。なんだかさみしいなと思った。試しに片っぽだけはめてみる。それがほんとうなのに、裸の手はかっこわるい。そういえばこの前、風邪を引いてマスクで通勤していたんだけど、うっかりくちべにを忘れて行ってしまって、職場のかがみで自分の顔を見たら、くちびるが赤くなくて恥ずかしかった。口なんか、もともとあんなに赤いものか。それがほんものなのに、ばかばかしいなあ。

クリスマスが終わってからおみくじを引くまでの、年越しの空気が好きだから、今はとてもうれしい。職場でひっきりなしに鳴っていたクリスマスのオルゴールも止まっているし、花屋の店先も赤い実がたくさん並んでいてきれい。めでたい!って感じだ。早く仕事納めにならないかなあ。接客業だから、きっと年末年始におやすみなんてもらえないだろうと思っていたのだけど、先輩が気づかって4連休をくれた。先輩は今日で仕事納めだったから、帰り際に「よいお年を」と言ったら、この前りんごをあげたお礼にとお菓子をくれた。手紙がついていて、わたしが喜ぶようなことが書いてあった。今の仕事先の先輩が褒めてくれるときはいつもメモとか、手書きの文字で、それがなんだかほんとうっぽくてうれしいんだ。

今年はなんだか、いろんなことがいっぱいあって、まさに「起死回生」って感じだったな。いっぱい死んだし、いっぱい生きた。わたしはいつも、最悪なのはなにもないことだって思っているから、これはきっと最高ってことだ。今年の日記はこれで最後になるかもしれない。来年も気が向いたときに書けたらいいな。みなさん、どうぞよいお年を。

とっくに新年

しゃらくさい
感傷的なオルゴールの音
12月なんて今日で終わりにして
1月だけ40日に引き延ばして
とっくに新年
みたいに生きてもいいような
気がするこんな白い真昼に
誰かのためにいい買い物をして
可愛い女の人の指で
きん色のリボンをかけてもらうのは
なんだかいいきもちがするし
言いたいことなんて何もないけど
あなたとだったら行ける街があるということに
うっかり救われてしまうなんて

1900円で買った
セーターのほころびを引っぱり
誰かを責めることにはもう うんざりなので
たまにはどうでもいいことを祝いたいだけかな

わがままがほんのすこし
僕たちにだけ許されるとしたら
月光などに感動しない
強いこころがほしかったよね