黒に藤波

閉園時間ギリギリに庭園美術館に行った。それというのも招待券をもらっていたので。七宝という技法でさまざまな模様の描かれた、やんごとない器の数々を見たのだけど、思っていたよりもおもしろかった。ああいう装飾過多なものがわたしも昔は好きだったのだ。写実的なものや、手数のかかっていることがあきらかなものがいいと思えたのは、今にしてみれば健全な審美眼だったのかもしれない。デザインを勉強してからだと、シルエットのすっきりとしたものを見たいなとか、色の組み合わせを考えるのであれば背景が黒である必要はなかったのではないかとか、置いてある部屋との関係性は特にないんだよなあとか、そういうことが目についてしまってなんだかよくないのだった。

そもそも、おそらくそういうことを気にしている客はわたししかいないのだ、ということに気づくと、なんだか足下の床がスッコーンと抜けて漠然とした宇宙のようなところ(たとえば七宝の背景に使われているぺたっとした黒色で塗りつぶされたような世界)に放り出されて動けなくなってしまいそうなので、わたしはそういうことには気づかないふりをして、ミュージアムショップでアクセサリーを買うマダム達を横目に、安くてあったかいうどんを啜りに行ったりしちゃうんだ。

ほとんどの人々にとって、美しさとは自分の意志や努力とは関係なく自然とうまれてくるもののことであり、そういった神の恵みのようなものに固執するのはすこし頭が悪い人のすることだと思われている。そうじゃないということを私はなんらかの方法で伝えたいのだけど、どうしたらいいのか、考えは宙ぶらりんになったまま、展示室のどこかで床をなくしたまま浮かんでいる。

今にしてみればやさしい

地獄みたいにいそがしい、と聞いていた日曜日はなんとか乗りきることができた。注文、お客さんの案内、お運び、レジ、注文、片づけ……。くるくると回るようにその時々のやるべきことをこなしていると、自分のなかに妙なリズムが生まれて、ときどき「自分」という速度を超えられる瞬間がある。それをずうっと維持することはできないから、気をぬかないことが肝心だけど、「それ」ができたときはうれしい。

仕事が終わって、なだれこむように、喫茶店の子たちとメキシコ料理屋へ行って、そのあと、最近できたというビストロへ行った。6人くらいで飲むのが最近はたのしく思えるからふしぎだ。たまたま居合わせた常連さんもいっしょにまぎれこんでいて面白かった。あと、お店をもう卒業しちゃった先輩がきていて、終始話題はその人のことだった。妙な人に好かれちゃう体質の人らしくて、それを心配してまわりの子たちが泣き出したのにはびっくりした。愛だなーと思った。そういえば、バイト中、ずっと叱られてばかりだった先輩が、差し入れを持って心配して様子を見にきてくれたらしいんだけど、それもなんか愛があってうれしいなと思った。

あの日の帰り道がみょうに楽しくて、へらへらしてしまって、それがなんでだったのかを今になって考えていたのだけど、たぶんこの2つのせいだったんだな。もちろん、酔ってたっていうのもあるだろうけどさ。自分のきもちを波立たせているものが人のやさしさだということに気づくと、すこしほっとする。

思い出したい

夜風が痛くない。どこまでも歩いて行けそうでどこまでも歩き、疲れてファミレスに入った。ファミレスにはファミリーしかいない。ドリンクバーに行きづらい。やっぱり喫茶店だな。と思う。ひとりで行くのは喫茶店だよ。うん、来週、あたらしいお店、どっか、行こう。仕事の関係で外出もままならなかった2週間のおかげで、食費をはじめとした、さまざまな生活費が浮いたはずなので、そのぶんのお金を、コーヒーと本についやすことに決める。

年が明けてから日記もろくに書けなかった。そのぶんのきもちはどこにいってしまったんだろうかと、いまのろのろと探している。書かなくてはいけないことがあふれて、ぼんやりとした色彩になってわたしの目の奥に滲んでいるのがわかる。でもそれを取り出すやりかたがわからない。やりかたを取り戻すために、このところ読んでばかりいる。似ているけれどそれではない。このもどかしさだけが、手がかりになる。言葉を出すということは主張を研ぎすますということなので、生活には不都合が多いのだろう。わたしは忙しさにふりまわされ、不都合なわたしを一度捨てたのだ。ゴミ箱に入った紙くずの皺をていねいに伸ばしてみると、案外、いいことが書いてあった、みたいな、そんなありきたりな生活の風景の一部のようにして、わたしはわたしを思い出そうと必死だ。

そういえば、大勢の人と知り合う機会があって、トランプやら闇鍋やら、よってたかっていろんなたのしいことをしたよ。脈絡のない夢みたいな生活だったな。大富豪がやっとおもしろいと思えるようになったので、このきもちを忘れないうちに、またやりたい。トランプってたのしいんだね。やろうよ。

今朝は、3人の可愛い女の子のオバケから大事なものを守って家を逃げる夢を見た。まあ悪夢ってやつね。残業続きの毎日から突然解放された反動か、さながら寝込んでいるかのような状況にある。明日は喫茶店のバイトが入っている。しゃきっとしなくては。休日のお店は休憩をとる暇もなく、ずっと満席で、お昼ご飯を立ったまま食べなくてはいけないらしい。スポーツだと思って頑張ろう。はあ。ほんとうは誰にも急かされたくなんかない。でも、ムリをすることで自分が育てられるんだとしたら、だらしないたましいを奮いたたせる価値はあるのかもしれないと、思いつつある。

あたり

買ったばかりのスニーカーで散歩していたら、左足が靴擦れになってしまった。からだのどこかが痛いと、マイナス思考になってしまう。何かいいことないかな、と思いながら自販機でココアを買うと、ぴーっと音が鳴って、もしや、と数字を見たら、当たっていた。いや、そういうことじゃなくて。と、つっこみながらもあわてて「ほっとゆずれもん」のボタンを押す。 がこん! しまった、両方、あったか〜いし、あま〜い……。と、後悔しながら両方を手にとる。あったかい。ちょっと、うれしいかも。うん、うれしいってことにしよう。春にはすこしにぶすぎる、ペットボトルの輪郭をなでる。

脱線

こんこんと12時間ねむりつづけた。くたびれると、すぐ夜更かしに甘えたくなるけど、やはり睡眠は効く。睡眠と日光が憂鬱に効く。荒れ地となった部屋の手入れでもしようと思っていたのだけど、せっかくの休みなので、すべてをほったらかして、買い物をしに行くことにする。日光がきもちいいせいで、バス停を通り過ぎて駅まで歩いてしまう。わたしは予定外の予定を愛する。

脱線に脱線を重ね、仕事用のスニーカーを買いに行ったのに、気づいたら両手に本をかかえていた。もうだめだ。帰り道、行ったことのないお店に行ってみたくなって、人形の館 というカフェバーでだらだらした。ダッチコーヒー、というコーヒーを頼んだのだけど、ひさしぶりにコーヒーを「おいしい」と思った。はずかしい話、わたしはコーヒーの区別というものがたいしてつかない。ここのコーヒーは区別がつくコーヒーだ。うれしかった。薄暗い店内のあちこちに、ビールの王冠やら古い雑誌やらが積みあがっている。たからものだ、と思った。ここにあるものは全部、たからもので、だからか、ごちゃごちゃとしているのに、とても落ちつく。大学で、いいものにはたくさん触れてきたけれど、こういうたからものには、なかなか出会えない。

たからものといいものはちがうんだよ。そんなこと考えたことないかもしれないけどさ。わたしは考えなくてもいいようなことを、結論を出すこともなく考えていたいだけなんだ、と思った。しあわせになった。たいせつなことを思い出せたから。

大丈夫にならない方法

朝、大学に行っていつも通り仕事をしていたら、備品を返しにきた学生が「朝からたいへんですね」と心配してくれた。こんな卒業制作まっさかりのたいへんな時期に、仕事している人間を気づかってくれるなんて、やさしい子だと思った。てらいのないやさしさに出会うたび、もっとしっかりしなくっちゃと思う。思うんだけど、しっかりしていない。おかしいな。昨年よりはマシになったはずなんだけど。

そう。マシになった。ダメだったのに、いつのまにか大丈夫になっていく。朝同じ時間に起きることも、同じ道を通うことも、最初は納得のいかなかったいくつかの仕事内容も、できなかったコミュニケーションも、いつしか大丈夫になって、気にならなくなって、なじんでいく。それを成長という単語にかえて呼ぶこともできるのだけれど、というか、それがこの世の常なのだけれど、なぜか違和感がぬぐえない。わたしは大丈夫なんだろうか。闇にむかって、吐いた息が白すぎる。ああこれは溜め息だ。溜め息という名前のついたひとつの人間の仕草で、今のわたしにふさわしい呼吸方法にすぎない。もっと自分のふるまいに無関心になれば生きやすい。でも、それは生きてるって言えるのかな。

ハンバーガーなどを食べよう

寒さに舞いあがってしまうから、冬はもう終わっていい。わたしの部屋は西向きで、外に出ないと朝がこないから、いつも心の準備ができずに扉を開けるのだけど、まぶしくてびっくりするよ。でも、まあいい。べつに、それはいい。朝は寒すぎないほうがいいけど、空は晴れていたほうがいい。

きょうも働いたなあ。生きのびたなあ。わたしは働くまえの朝が嫌いで、働いたあとの夕方が好き。喫茶店のランチタイムのピークは、わたしが今までの人生で出してきたスピードをやすやすと上回る値を求めてくる。死ぬ気でやっても追いつかない。本気でやっているつもりなんだけど、くじけないようにへらへらしていたら「響いてないのかな」と先輩が悩んでいる場面に遭遇した。裏目にでてる……。でも、どうしたらいいのかわかんない。ネットで診断とかしてみても悔しいくらい健康だし、医学が実証してくれない以上、わたしのぼんやりもうっかりも、ただの甘えなんだな。なおせるものならなおしたいな。あとひと月で……。え、できるかな?

自分のふがいなさを思い知ったあとに、星空を見ながら将来のことなんか考えちゃうと、うっかり「書くか死ぬかしかねえな」とつぶやきそうになるけれど、それは大げさすぎるって、と自分につっこむくらいの正常さというか、冷静さを持ちあわせているおかげで、わたしのかなしみは持続せず、家について、ハンバーガーなどを食べてるあいだに消えてしまう。そう。落ちこんでいるときは、まずお湯で手を洗う。それから食事。どうにもこうにもいかなくなったら、一度死ぬつもりで目を閉じる。どうせ、朝になれば目はさめるので。